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2010年1月29日 (金)

日本のキリスト教信者の堕落

教会に行くと年寄りが多い。死期が近づくと教会に行きたくなるのか?
というより、定年退職後に行く場所がないから教会でサークル活動をする。
更に、何か役を拝命してもらい神の近くに自分の場所を得る。また、信仰とうより煩悩を満たすための教会活動をする。本人も、周りの人も「キリスト教の本質である弱者に対する共感を持ち合わせず」、自己誇示の場所と勘違いしている。殉教者やコルベ神父ほどの美学を求めるのは無理としても、謙虚さは必要であろう。教会を自己の活躍の場所と履き違えてる輩は問題である。現実社会の厳しい競争に敗れ、逃避場所として教会を選び自分を神の右座に位置づける連中だ。
会社の役員や政治家でも引退せずに自己の存在感のためにしがみ付く輩と同じである。
この点は仏教者の方がマシなような気がする。坊主も信者も堕落している事を自覚している分だけ誇ることがない。日本のキリスト教は清教徒がもたらしたイメージが強いため皆で貧乏ごっこをする。金持ちになるには激しい競争が必要だが、既得権の中での貧乏ごっこは容易である。しかし、キリストとは無縁の恵まれた輩である。「友愛を説く脱税王の首相」や「正義の人と証する自民党議員」よりホームレスの方が遥かにキリストの右座に位置づけられる。キリストの目線とはそういうものではないか。鈴木宗雄さんも拘置所に長く入ってから一皮向けた政治家になったような気がする。どん底から這い上がると本質が見えてくるのかもしれない。石見銀蔵のようなバーチャルの世界でPCに愚痴を書いている輩も問題である。

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