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2010年6月25日 (金)

キリスト教に思う

長年(時間だけ)キリスト教信者の頭数に入っていただけであった。
恥ずかしい気持ちから時間的な束縛がなくなったら真面目に勉強しようと思っていた。
最近、学べば学ぶほどキリスト教から遠ざかるような気がする。
ユダヤ人はバビロン捕囚の奴隷の身からからキュロス(ペルシャ王)に開放された。
イスラエルの民がアッシリヤ・バビロン帝国の侵略で、亡国の民となった。
そして、遂にペルシャ帝国に支配された属州の中で試行錯誤の末、国家権力なしにヤーウェ神の信仰共同体として再生する。
その奴隷解放の思想を持つユダヤ教、そしてユダヤ教の堕落に対して最下層の民を解放するためにユダヤ教改革を唱えたイエス(後にキリスト教と呼ばれる)。
しかし現在のキリスト教は彼の思想からは程遠いものではないだろうか。
キリスト教信者とは正に偶像崇拝(広い意味での)ではないか?
弱者への共感など容易に出来るものではない。
鳩山由紀夫(脱税王)の友愛など馬鹿げた主張である。
金持ちが弱者に共感することは、駱駝を針の穴に通すようなものだという聖書の1節を思い出す。
更に、自分の不信仰を棚に上げて言わせて頂けば、神父(牧師などは論外)にしてもキリスト教という名ばかりの教会員との世俗的な葛藤など神の代理人として相応しいであろうか?
過去のカトリックを垣間見ても非常に世俗的時代が多かった。
そして、今日、科学的な聖書研究が進んだ現代においての神、創造主を何に喩えるか問われる。

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