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2010年8月 2日 (月)

石原慎太郎「歴史の報復」に思う

石原慎太郎「歴史の報復」より抜粋
 人間の作り出した『神』もまたこの事態に所詮沈黙せざるをえない。人間が作り出したものなのに、いったん人間の手を離れると『神』はいたずらに絶対化され、その本質を逸脱してしまうようだ。私には、いわゆる一神教同士のいがみ合いがどうにも理解できない。歴史的には同根ともいわれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の間の激しい摩擦は理解に遠い、というより『神』の立場からすれば許しがたいものに違いない。
 しかしその背景にはやはり人間の歴史がもたらした所以(ゆえん)がある。宗教の独善がもたらした中世における、エルサレムの占拠を巡っての十字軍なる愚挙が歴史の中に長い尾を引いて、さらにキリスト教圏の白人によるイスラム教圏の民族への植民地支配がかの地での抑圧と憎しみを増殖し心理的に深い溝を造成してきた。そしてそれが今日の世界での激しい対立意識を加速している。宗教的な信条としてテロによる死を恐れぬ、歴史を背にした死を賭しての報復の遂行を無上の光栄とする、襲われる側からすれば狂信的な、攻撃側の姿勢は今後も防ぎようあるまい。

石原慎太郎は、狂信的と簡単に決めつけるが、そうであろうか?
キリスト教のモーセ五書はユダヤ教徒・イスラム教徒も同じであるから歴史的にユダヤ教とイスラム教は同根である。そして、イスラエルは聖書にあるように、神からの約束の地であるカナンは、ユダヤ教徒の領土であると考えている。イスラム教徒のパレスチナ住民は、自分たちの神への不忠義が災いをもたらしたものと考えている。
イスラム原理主義とは、2000年前にローマ帝国に最も激しく反乱したユダヤ教徒が現在のパレスチナのイスラム教徒の姿である。神は、アブラハムが息子イサクを生贄にするような忠義を求めている。死を賭しての報復は当然といえる。
宗教の独善がもたらした中世における、エルサレムの占拠を巡っての十字軍なる愚挙というが、今のキリスト教徒でも「キリストの信条」を正しく理解していない信者は多い。現在でも、キリストがユダヤ人で有色人だったことを知らないキリスト教圏の信者は多数いる。私は、十字軍や植民地支配は「本来のキリスト教徒の信条」とは無縁であると考える。バビロン捕囚から約2500年後の現在もパレスチナ・イスラム教徒の神への不忠義が今日の苦境をもたらしていると考えていることは理解できるのではないか?
そして、ユダヤ教徒、イスラム教徒と違い、キリスト教圏に住む人々はキリスト教信者といえるだろうか?
少数の日本のキリスト教信者や欧米のクリスチャンでも「イエスの弱者への共感」や「バビロン捕囚が起源となった神との契約」を受け継いでいるのか疑問に思う。

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