キリスト教に求めるものは、倫理感しかないのだろうか?
ユダの福音書のパピルス写本は、1970年代に発見され、2001年に写本が解読された。そこに描かれたユダは、新約聖書の福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)の記述とは異なり、イエスはユダに自分への裏切りを命じる。ユダは、真にイエスを理解した使徒だったとの記述だった。
「ユダの福音書」はイエス・キリストを裏切ったユダの行動に対する「もう一つの見方」を示している。
「ユダの福音書」から記載されている、イエスがユダに語った言葉
「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」
「ユダの福音書」は異端反駁に名を挙げられていることから2世紀には成立していたと考えられ、220-340年頃に筆写されたものらしい。
2世紀以降、キリスト教の教義が確立されていく中で、解釈においてさまざまな立場が現れた。キリスト教をローマ帝国の統治に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世によりニカイアで、皇帝の指導と庇護の下に代表者会議が開かれた。このニカイア公会議で「ユダの福音書」はアリウス派と同様に異端とされた。
このような事実が明らかになってくると、現在のキリスト教(アタナシウス派カトリック・三位一体)は、神の手ではなくローマ皇帝コンスタンティヌス1世により作り出されたことが判ってくる。
日本のキリスト教会では、クリスチャンと呼ばれる信者がこの事実を全く知らずに「鰯の頭も信心から」という信仰状態である。日本に於ける、葬式仏教徒と同じである。キリスト教に求めるものは、神ではなく「弱者への共感」という倫理感しかないのだろうか?
問題は、その「弱者への共感」義務も果たさずに「おねだり専門のファッション宗教」になり下がっている。
更に、基盤にキリスト教の倫理感がない小泉改革は、セイフティネットも確立ぜずに格差社会を生み出した。
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