マグダラのマリアによる福音書
「マグダラのマリアによる福音書」は、2世紀初めに書かれて以後、残された僅かな写本から読み取れることは、イエスの教えに対する弟子たちの無理解と、その真の理解者としてのマグダラのマリアとの対照であり、当時の対立教派(カトリック)との違いが際立っている。
「イエスが、法を作るようなことを否定し、自分自身の中に神を見るように言っている」ことは、新約聖書の教えとかけ離れている。ジャンポールスキーのInner Peaceに通ずる感じがする。
Inner Peaceより「知覚(Perception)は内なる精神の鏡であって、事実ではない。私の見ている世界は私が造りだしたもの。即ち、聖霊(内なる声)に耳を傾けること。」
同福音書でマリアを非難するペテロの言葉に、パウロ書簡にある「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(コリントの信徒への手紙1)の主張に通じるものがある。
新約聖書(正統派教会)は、根強い女性差別が書かれているが、マグダラのマリアによる福音書ではそういう発言者を厳しく咎めている。なにか現代に通じる福音書のような気がする。
参考 マグダラのマリアによる福音書より
内容は、イエスの死後、弟子達が今後の宣教に自信をなくし、イエスに最も近かったマグダラのマリアに意見を求めるというものである。
アンドレアスが答えて兄弟たちに言った、「彼女が言ったことに、そのことに関してあなたがたの言いたいと思うことを言ってくれ。救い主がこれらのことを言ったとは、この私は信じない。これらの教えは異質な考えのように思われるから。」
ペトロが答えて、これらの事柄について話した。彼は救い主について彼らに尋ねた、「彼がわれわれに隠れて一人の女性と、公開でではなく語ったりしたのだろうか。将来は、われわれは自身が輪になって、皆、彼女の言うことを聴くことにならないだろうか。救い主が彼女を選んだというのは、われわれ以上になのか。」
そのとき、マリヤは泣いて、ペトロに言った、「私の兄弟ペトロよ、それではあなたが考えておられることは何ですか。私が考えたことは、私の心の中で私一人で考え出したことと、あるいは私が嘘をついているとすればそれは救い主についてだと考えておられるからには。」
レビが答えて、ペトロに言った、「ペトロよ、いつもあなたは怒る人だ。今私があなたを見ていると、あなたがこの女性に対して格闘しているのは敵対者たちのやり方でだ。もし、救い主が彼女をふさわしいものとしたのなら、彼女を拒否しているからには、あなた自身は一体何者なのか。確かに救い主は彼女をしっかりと知っていて、このゆえにわれわれよりも彼女を愛したのだ。むしろ、われわれは恥じ入るべきであり、完全なる人間を着て、彼がわれわれに命じたそのやり方で、自分のために完全なる人間を生み出すべきであり、福音をのべるべきである、救い主が言ったことを越えて、他の定めや他の法を置いたりすることなく。」
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