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2010年10月

2010年10月29日 (金)

エルサレムの人口

ヨセフスはユダヤ戦争で百十万人が殺されたと書いているが、考古学的な年代によるとエルサレムの人口は以下である。

ダビデ王    2,000人  BC1000年
ソロモン王   5,000人 BC930年
ヒゼキア王  25,000人 BC701年
バビロン帰還  4,500人 BC333年
ハスモン王朝 30,000人 BC2世紀
ヘロデ王    40,000人  BC4世紀
第二神殿破壊80,000人  BC66年
 
バビロニアへの捕囚後の人口はかなり減っていたことがわかる。

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イエスの兄弟

イエスの兄弟として、義人ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ・サロメ・マリアがいる。
主の兄弟ヤコブは、エルサレム教会の監督者として聖書で重要人物である。ただし、ヤコブという名前はユダヤ人の名前として多かったらしい。アブラハムーイサクーヤコブなど支族のヤコブ。十二使徒のゼベタイの息子ヤコブ(大ヤコブ)やアルファイの息子(小ヤコブ)など紛らわしい。
カトリックではマリアの永遠の処女性を保つために、主(イエス)の兄弟ヤコブは従兄弟なのだそうだ。伝承では、ヤコブの親は、ヨセフ(イエスの父)の兄弟のクロパとその妻マリアとされている。
ギリシャ正教(東方教会)では、ヨセフがマリアと結婚する前妻の子としてイエスの兄弟・ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ・サロメ・マリアだそうだ。とするとイエスよりヤコブが年上で、マリアは処女を保つことが可能になる。
プロテスタントの宗派では、イエスは神との間の子であり、結婚後にヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ・サロメ・マリアが生まれた。つまり、マリアは永遠の処女ではなくヤコブを生んだ後は、処女ではなくなった。
確かに、プロテスタントではマリア信仰はないためマリアの永遠の処女性も必要がないのであろう。
しかし、普通に考えれば、ヨセフとマリアの子供がイエス・ヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダ・サロメ・マリアである。
イザヤ書のアラム語からのギリシャ語の誤訳で「乙女」を「処女」と訳し間違えたのが発端のような気がする。
私は、複数のプロテスタント教会や改宗後にカトリック教会にも行ったが、この辺りの説明はなかった。というより話題にすらならない。マルコ福音書ではシモンとユダが逆であるがマタイ福音書ではヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダや姉妹とイエスが一緒に住んでいることも記されている。
カトリックではイエスの歳をヤコブと比較できないが、正教会ではイエスが兄弟の末っ子でヨセフとマリアの歳の差が大きいことになる。

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2010年10月26日 (火)

現代では、反駁されたイエスの霊的復活が受け入れ易い。

正統派教会(アタナシウス派・カトリック)は、イエスの復活で甦った肉体は「血液が充満し、骨ででき、神経が交錯し、血管が縦横に走っているこの肉体、・・・・・生まれ、そして・・・・死ぬ(肉体)、つまり、疑いもなく人間である。」という主張である。しかし、異端として反駁・追放された者たちは、復活を否定することはしないが、霊的次元でイエスに出会ったという主張であった。
そして、正統派教会は、肉体の復活を否定するものは、いかなる者であれ、異端者であり、キリスト教徒ではないと宣言している。
パウロは、「兄弟たちよ。私はこのことを言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができなし、朽ち果てるもの(すなわち死すべき肉体)は、朽ちないものを継ぐことができない」(コリントⅠ・15・50)と主張する。パウロは復活を、肉体的な存在から精神的な存在への変貌として、一つの奥義として記述している。
正統派教会が、異端反駁として霊的な復活を退けたのは、使徒ペテロの後継者として諸教会の指導権を自分達だけで行使することを主張した若干の人々の権限を合法化するためであった。二世紀以降今日に至るまで、この教義は司教たちの使徒的継承権を教皇の権威の基盤として役立てた。
更に、四世紀になるとコンスタンティヌス大帝は、キリスト教の新約聖書に従い皇帝の権威は神によって立てられたものだとして、皇帝の継承を円滑にするために利用した。そして、司教、司祭には労働を免除し、教会活動の資金は教皇領の寄進のみならず初代のサン・ピエトロ大聖堂・ラテラノ大聖堂・聖墳墓教会も寄進し、ニケーヤ公会議を開催してキリスト教の教派の分裂を防ぐなど今日のカトリック教会の礎を作った。

ニケーア・コンスタンチノポリス信条は、「・・・聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました。・・・わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天に昇り、父の右の座に着いておられます。・・・」となっている。
私は、プロテスタント(日本基督教団)からカトリックに改宗したため(どちらの宗派も知っているが)だいたい同じように教会で朗読する。
ただし、プロテスタント時代に、信者は「血液が充満し、骨でできた肉体の復活とは思っていない」しカトックの信者に至っては典礼中心で日常的に聖書を読む習慣がない人がほとんどである。
更に、言わせて頂けば、教会に集うほとんどの信者は、イザヤ書のギリシャ語訳で「乙女」と「処女」の誤訳からマリア処女懐妊になったことなど知らない。
当時、二世紀は天動説でありダーウインの進化説も無かった時代の正統派教会(アタナシウス派・カトリック)の主意より、科学技術の発達やイエス研究の進んだ現代では、反駁されたイエスの霊的復活のほうが受け入れやすい。
実際、日本のプロテスタント信者は「血液が充満し、骨でできた肉体の復活とは思っていない」し、カトリック教会の某神父も磔刑の場面は旧約聖書のイザヤ書や詩編などから作られたものだという。(私もそう思っている)
バチカン第二公会議以降は、カトリックはプロテスタントに妥協的な精神で聖書の統一を呼びかけ新共同約が生まれた。(プロテスタントに妥協した為、過去に根づいた誤訳表現から抜け出せないため、私はフランシスコ会聖書研究所訳注や本田哲郎神父の私訳を使用している。)
こういう流れを見てくると、キリスト教とは当時の「諸教会の指導権を自分達だけで行使することを主張した若干の人々の権限の合法化」や「皇帝の権威は神によって立てられたものだとして、皇帝の継承を円滑にするための利用」など本来のイエスの主張とはかけ離れた次元である。
正確に伝承しない事が愚かなナチスによるユダヤ人殺害などの原因となったことは明らかである。イスカリオテのユダにしても最初のマルコ福音書では金銭の話があっただけだがマタイ福音書・ルカ福音書・ヨハネ福音書と年代が降るに従い悪く卑しめられヨハネ福音書ではサターンになっている。
現代社会にキリスト教の倫理観を普及させるには、終末思想だけでは無理であろう。
何かに打ち込むことやコミュニティとしての会堂に集うことも否定できないが、無駄な時間・遺産・金を本来の「弱者への共感」に向けるべきではないかと思う。日本のキリスト教徒は、聖書の文言を自分流に解釈して都合のよい説教する牧師や信者がほとんどではないか?

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2010年10月23日 (土)

過去にカトリックで聖書を強く奨めない理由

ユダの福音書では、イエスの予告通りに、イエスの肉体を究極的に死に「引き渡す」このことによっての霊魂を肉体から開放し、そうすることによって「イエスを人間救済の元祖たらしめた」ということらしい。
外典福音書の解説書など読むと、ヨハネの福音書の「トマス批判」や「マルコに比較して痛烈なユダ批判」が気になってくる。
初期キリスト教徒の覇権争いの主張としてヨハネ福音書が記述されたと思うと考えることがある。
近年のイエス研究で、聖書が神の手で書かれた物でないことが明らかになってくる。
それでは、今世紀までの2000年以上の膨大なキリスト教の遺産や殉教・戦争などは、いったいなにだったのかと思う。イスラム教徒とイスラエルの戦いでも、宗教の違いというより「宗教で括られたコミュニティ」間の憎しみであろう。
IRAとイギリスやインドとパキスタンも同様のような気がする。
特に、パレスチナの問題やナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺など「宗教で括られたコミュニティ」の憎しみのために聖書が利用されたのであれば本末転倒である。
個人的には、パウロの女性蔑視発言や女性が聖職位階制度から除かれている現状より、当時の「マリアによる福音書」などのほうが現代に即している気がする。
当時、焚書された福音書が多数発見されることによりキリスト教の受け止め方が変ってきた。
カトリックでは、これらの事情をよく知る司教・司祭が混乱を避けるために聖書を強く信者に奨めないのであろう。


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2010年10月18日 (月)

日本を中共の属国にする民主党

仙谷官房長官は、尖閣諸島の事件で逮捕した船長をAPECに影響を与えるとして釈放した。「日本が中国の属国になる」との懸念を自民党の丸山氏が伝えると、「属国化は今に始まったことではない」と応じた。
賤極は「健忘症にかかったか、今暴露された会話の記憶は全くない」と否定した。

賤極という愚かな人材を政府の要職に起用する空き菅は困ったものだ。早期の衆議院解散で民意を問うべきだ。

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2010年10月15日 (金)

国民のため自ら大臣を辞職すべし

 円相場が14日、1ドル=80円台まで上昇し1995年に記録した最高値(79円75銭)に迫る水準である。野田佳彦財務相は15日午後の参院予算委員会で、円高への対応について「引き続き重大な関心を持ってマーケットを注視し、必要な時には断固たる措置をとる」と述べた。
円は、ここ数ヶ月で既に10%以上も切り上がっている。三年前に比べれば50%以上の上昇だ。脳堕財務大臣は、製造業が国内で存続できると思うのか?
更に、政府は15日、今国会に提出予定の国家公務員給与を引き下げる給与法改正案について、平均年間給与を1・5%削減するよう求めた2010年度人事院勧告通りの引き下げ幅とする方針で、大幅削減への慎重論を唱える官公労出身議員に配慮した。
脳堕にしろ賤極も含めて、当事者能力がない。国民のために自ら大臣を辞職していただきたい。

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2010年10月13日 (水)

トマス批判のヨハネ福音書

ヨハネの福音書には、これまでかと思うくらいトマスを貶める箇所が多い。他の福音記者は、別段トマスを厳しく咎めてはいない。
聖書カルタの中にも「トマスに見せる傷の痕」などと卑しめられている。
1945年にエジプトのナグ・ハマディで見つかった写本群に中にトマスの福音書という、114の文からなるイエスの語録集がある。
トマスの福音書では、ヨハネ福音書のようにイエスを通さずとも信徒に直接聖霊が注がれるという主張である。そして、天国は汝の心の内にあるそうだ。ルカの福音書の中にも似たような記述はある。
科学が発達した現代社会や戦後のイエス研究が進んだ事により、聖書が時代の要請で作成されてきたことがわかってきた。
少なくとも神という存在の有無は別としても、イエスの生涯や聖書が著作された時代の歴史的は背景は明らかになりつつある。
ヨハネ福音記者はトマスの主張を退けるために書かれたという説もあるらしい。そして、ローマ帝国コンスタンティヌス皇帝がニケーア公会議で決めた三位一体のアタナシウス派(カトリック)以外の諸説は禁止とし、そのテキスト・写本を廃止にし焚書とした。
確かに、現代であれば三位一体で天から下るという話より「各人の心の中に天国がある」という主張の方が納得がいく。天の上には宇宙空間が果てしなく広がっている事は現代では誰もが知っている。
仏教にも通ずるところがある哲学的なトマス福音書は神秘的な気がする。
カトリックに連なる不信心な小生としては破門されない程度の批判に留めておく。

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2010年10月 5日 (火)

瓜田に履を納れず

大阪特捜部は、証拠改竄で村木局長を不正逮捕、おまけに主任検事・副部長・部長が逮捕された。
東京特捜部は、事件をでっち上げに失敗したあげく、某団体の告発を検察が受理し、若い人たちの検察審査会が起訴判定だそうだ。
女6人・男5人で平均30歳というから、小沢一朗の過去などよく知らないだろうし、生きていくのに精一杯の世代だろうから厳しい判断がでた。
大阪特捜部の逮捕された前田主任検事の調書は捏造だろうから小沢さんも気の毒である。
だいたい9月14日の民主党党首選の日に決議というのも何か仕組まれた気がする。
嘘で固めた検察とういう所を早くなんとかしないと困ったものだ。
もともと、当時の政権与党の自民党と検察がタックを組んで仕組んだ国策捜査だろう。
マスゴミとアホな政治家・捏造検察で日本の国益が阻害され尖閣や北方領土は他国領土になってしまう。
しかし、いくら違法でないといっても秘書住宅を政治資金で建てたことは問題ではないか?
必要なら賃貸住宅を借りるのが一般の感覚である。
瓜田に履を納れず。

政治資金で私腹を肥やしたと思い、本来の審査対象とは違った要因で決議されたのは気の毒である。
ところで、菅・仙谷・蓮舫もたたけば埃りがでるだろう。
悪人の形相だし政治家などその程度の輩だと思う。
個人的には、脱税一族の鳩山由紀夫が友愛を説くほうが許せない。

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2010年10月 3日 (日)

事件をゲーム感覚ででっち上げる検察

今回、大阪特捜部の犯罪が明らかになって、検察とは事件をゲーム感覚ででっち上げる部門であった。
そして、マズゴミは世論を煽り立てる拡声器でしかなかった。
冤罪で死刑執行になった飯塚事件や再審で無罪が証明された足利事件など、無実な人を犯人に仕立て、真犯人を時効で逃がす愚かなことをしている。
元々、ゲーム感覚で刑事訴訟をやられては、犯人にされた人はたまったものではない。
そして、再審請求を認めなかった宇都宮地裁判事の池本寿美子は、まだ裁判官を続けている。
司法には倫理も責任も自尊心も無いと見た方がよい。
容疑者より検事が悪質で、裁判官に倫理がないような場所で人を裁けるのかといいたい。
今回、小沢秘書の大久保氏も大阪特捜部の前田容疑者が取り調べたということらしい。
捏造調書でいったい何を争うのだろうか?
大久保容疑者より前田容疑者の方が悪質なので、私が裁判官なら「疑わしきは罰せず」で無罪放免にする。
ロッキード事件や鈴木宗男事件なども検察のでっちあげではないかと疑いたくなる。
裁判官は、検事より容疑者の答弁を信用するくらいで望まなければ公正な裁判は受けられない。
倫理の欠片も持ち合わせず政争に利用した、空き缶・賎極は政治家として恥ずべきものだ。

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2010年10月 2日 (土)

鹿をさして馬と為す民主政権

枝野幸男幹事長代理は、沖縄県尖閣諸島沖の漁船衝突事件後に中国が「報復措置」を繰り返していることについて「中国とは法治主義が通らないという前提で付き合わないといけない。そういう国と経済的パートナーシップを組む企業はお人よしだ。」

批判は、一流だが無責任な三流民主党政治家にはほとほと疲れる。
枝野など額に汗して働いたことのない人間に企業の国際競争の厳しさが、どういうものか理解できないのだろう。人のいないところには金が集まらない事くらい解っていないのかと呆れる。
家電メーカなどは昭和40年代から中国に進出している。私が最初に広東に行った時は、人民服を着た連中が空港の周りに陣取っていた。広東より遅れた上海では、揚子江の岸辺で人民服を着たアベックが散歩している風景だ。勿論、上海には戦前からある平和ホテルくらいしかなかった。外貨不足の中国では、兌換券が使用されていた。
キャンペーンガールの蓮舫も日本のためだと思うなら、早く政治家を辞めてもらいたいものだ。
日本人なら「人の話を最後まで聞く」という小学生並みのことを誰か注意してやって欲しい。
空き缶・賤極は、枝野・蓮舫とは別の意味で鹿をさして馬と為す政治家だ。

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