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2010年10月23日 (土)

過去にカトリックで聖書を強く奨めない理由

ユダの福音書では、イエスの予告通りに、イエスの肉体を究極的に死に「引き渡す」このことによっての霊魂を肉体から開放し、そうすることによって「イエスを人間救済の元祖たらしめた」ということらしい。
外典福音書の解説書など読むと、ヨハネの福音書の「トマス批判」や「マルコに比較して痛烈なユダ批判」が気になってくる。
初期キリスト教徒の覇権争いの主張としてヨハネ福音書が記述されたと思うと考えることがある。
近年のイエス研究で、聖書が神の手で書かれた物でないことが明らかになってくる。
それでは、今世紀までの2000年以上の膨大なキリスト教の遺産や殉教・戦争などは、いったいなにだったのかと思う。イスラム教徒とイスラエルの戦いでも、宗教の違いというより「宗教で括られたコミュニティ」間の憎しみであろう。
IRAとイギリスやインドとパキスタンも同様のような気がする。
特に、パレスチナの問題やナチス・ドイツによるユダヤ人の虐殺など「宗教で括られたコミュニティ」の憎しみのために聖書が利用されたのであれば本末転倒である。
個人的には、パウロの女性蔑視発言や女性が聖職位階制度から除かれている現状より、当時の「マリアによる福音書」などのほうが現代に即している気がする。
当時、焚書された福音書が多数発見されることによりキリスト教の受け止め方が変ってきた。
カトリックでは、これらの事情をよく知る司教・司祭が混乱を避けるために聖書を強く信者に奨めないのであろう。


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