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2010年11月

2010年11月23日 (火)

ネットに文書保管可能な複合機 シャープ

シャープは、文書を読み込んでインターネット上に保管したり、資料として直接プリントアウトしたりできる複合機を発表した。ネット上に文書を保管すれば在宅勤務や営業担当の社員などが社外から簡単に文書を閲覧、印刷できる。ネット上の文書を複合機や高機能携帯電話(スマートフォン)で閲覧できるサービスは他社も取り組んでいるが、シャープはタブレット型端末や電子黒板も使えるのが特徴だ。

複合機のこのような記事を読むと何時も疑問に思うことがある。インターネット上に保管するのは、結構であるが複合機と何が関係があるのだろうか?
1.ネット上にファイルを管理することは一般的ではあるがセキュリティはシャープが保障するのだろうか?
2.直接プリントアウトしたりできる複合機とあるが、どのプリンタでも印刷は可能でないと汎用性はない。
3.タブレット型端末や電子黒板でも使用できるとあるので、端末側が汎用性があるのだろうと思いたい。
だいたい、複写機メーカのセキュリティなど信用してファイル管理を委託したいとは思わないし、シャープが提供するアウトソーシングのようなファイルサーバーをIBMや富士通のシステムを導入している顧客がわざわざ使用するとは思えない。
こういう企画をする複写機ベンダーが、セキュリティを軽く考えていることが心配になる。どうでもよいデータならいいが重要で個人情報に関わる顧客資産など、とうてい登録する気にはなれない。

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2010年11月13日 (土)

布川事件の検察官は懲戒免職にすべき

布川事件で検察は、凝りもせず無期懲役を求刑した。
男性2名の自白と現場の目撃証言が有罪の証拠で、物的証拠はない。
無罪を唱えながら仮出獄した受刑者が嘘をつくであろうか?
検察官という輩は、自分のメンツのためなら人の不幸など、どうでもよいのだろう。
新たな証拠もないのに再審で無期懲役を求刑した検察官などは犯罪行為とみなし懲戒免職にすべきではないか!
このような無責任な検察官が多数いるようでは無罪が明らかなのに冤罪を問われた足利事件の菅谷さんやもっと悪質な司法による死刑殺害の飯塚事件が再発する。
前回、無罪が明らかな村木元局長逮捕の蛮行が戒めになっていない。
検察官など、資質に恵まれたまともな人材は選択しない職業である。
検察官に正義や倫理を問う事が行き過ぎなのだろうか?

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2010年11月11日 (木)

主の祈り

主の祈り
天にまします我らの父よ願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。み心の天に成る如く地にもなさせたまえ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
プロテスタントもカトリックも基本的に似たような文言である。

旧約聖書では、「ダビデの子である、王としてのメシア」は、各国散らばった十二支族をふたたびイスラエルに招き入れる任務を負うとされていた。確かに、「天に成る如く地にもなさせたまえ」とあるから、地上に神の国が実現することである。
しかし、パウロは、地上のエルサレムには特別の意味はなく、新たに出現する「霊的な天のエルサレム」こそが、キリストが王として存在する場所だと述べている。
1873年にコンスタンティノープルの図書館で発見された『12使徒の教訓(ディダケー)』は、聖餐の杯について「わたしたちの父よ。御子イエスをとおして、あなたがわたしたちに明らかにされた、ダビデの聖なるぶどうの木に感謝します。あなたの栄光が永遠に続きますように。」パンについて「わたしたちの父よ。御子イエスをとおして、あなたがわたしたちに明らかにされた命と知恵に感謝します。あなたの栄光が永遠に続きますように。」とある。ぶどう酒が血を、パンが肉を表すということには、まったく言及されていない。この記述は『死海文書』に記されている『メシアの聖餐』の記述にも沿っている。イエスの12弟子たちは、パウロが書いているような儀式は知らなかった。
もともと、イエスはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒であり、誰よりもユダヤ教の正典(律法)に忠実だったので、神の像を造ることはなかったし、その他(聖母や聖人など)の偶像を造ることもなかった。12使徒や信徒たちも皆、神の律法に忠実だったので、イエスの姿かたちを描いたり刻んだりすることはなかったはずだ。
更に、生前のイエス自身も12使徒も、当時の信徒らも、誰一人としてキリスト教の教義が定める正しい洗礼、すなわち「父と子と聖霊の御名による洗礼」は受けていないことである。彼らは、ヨハネから「悔い改めの洗礼」を授かっただけなのである。

このように見てくると、初期キリスト教会のイエスに連なる主の兄弟義人ヤコブの教会とパウロ神学は大きく異なっている。

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2010年11月 9日 (火)

パウロはイエスから受け継いだのか?

キリスト教では聖餐式がある。プロテスタントではワインとパンをカトリックではホスティアと呼ばれる煎餅を食べる。
サンノゼのメソジスト教会では洗礼をしなくとも、聖餐式を受けられるが日本の教会はつまらないところが厳格で受けられない。カトリックのホスティアも同様で貰えないが、代わりに神父から安手があるから非常にありがたい。
そして、聖餐式の前に以下の文言が並べられる。

コリントの手紙(11・23)
私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

最近、思うのだが「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」とあるが、神父はともかく牧師も含めて相応しい教会員などいるのかと思う。
パウロは、イエスから受け継いだものとしてコリントⅠの手紙に記しているが、イエスは最後の晩餐でそのようなことを言ったのだろうか?
パウロはイエスには会ったことはないし、晩餐に立ち会ったわけでもない。また、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ福音書はパウロのコリントⅠの手紙より後になって書かれたものである。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」とあるが、創世記で、ノアとその子孫は「肉は命である血を含んだまま食してはいけない」とある。レビ記でも、モーセは「イスラエルの家の者であれ、・・・血を食べるものに・・・民の中から断つ」とある。
血を飲むという考えは一般的ユダヤ人の感覚からすれば、イエスがそのような象徴を用いたことは考えられない。
これの起源は、ギリシャ・ローマの魔術儀式にみられる。ギリシャの古文書の中に血を飲む(ワインを飲む)という象徴的な行為は結合のための魔術的儀式としてあった。パウロは、タルソスという小アジアの出身で、文化的にはギリシャ・ローマの環境で育った。
神学的なヨハネ福音書には、聖餐のしきたりとなるこの言葉は全く記されていなく、通常のユダヤの食事をしたとある。
原始キリスト教徒の記録には、ワインが血でパンが肉体を表わすとは一度も言及されていない。
これが事実なら、教会はつまらないことを長い間守ってきたことになる。
ユダヤでは、姦淫の子イエスと同様に血抜きをする漁師のペテロやアンデレは穢れた職業のため最下層の人とされていた。
パウロは、ユダヤ教に対する反駁の意志をキリスト教の儀式としたのかもしてないが、純粋なユダヤ人でユダヤ教徒のイエスから受け継いだとは思えない。

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最後の晩餐は木曜日

キリスト教文化の欧米では、13日の金曜日が呪いの日として縁起が悪いとされる。日本で言うなら仏滅であろう。
現在では、一日ずれていて主の晩餐は水曜日に行なわれ、イエスが磔刑に処せられたのは木曜日とされている。したがって過ぎ越しの祭りの会食が木曜日の夕刻に始まるため、イエスは過ぎ越しの食事を取っていなかった。
何故、後世のキリスト教徒が間違ったかというとユダヤでは土曜日は安息日である。更に、ユダヤ人なら常識であるが過ぎ越しの祭りとそれに続く日も安息日である。つまり、金曜日は過ぎ越しの祭りのため安息日であった。マタイのギリシャ語版の福音書では安息日が複数形であるため記録者は知っていたはずだ。ヨハネ福音書(18・28)でも、ユダヤ人たちは木曜日の朝に穢れないようにと官邸に入らなかったことから過ぎ越しの食事が木曜日なのを知っていた。
我々日本人は、刷り込まれた先入観を洗い流すのは大変である。
こんどから13日の木曜日を縁起の悪い日と覚えておこう。

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イエスの生きた時代は旧約聖書の予言では世界の終末時期

イエスの生きた時代は旧約聖書によると終末の時期であった。
ダニエル書(9・24)七十週の予言
七十週が開始されるのは、ペルシヤのアルタシャスタ王がネヘミヤにエルサレムの町の城壁再建を許可する時からで、バビロンから引き揚げてきたエズラやユダヤ人たちが、神殿の再建を紀元前457年から始める時期から測ったらしい。
安息年は「一週」つまり七年に一度訪れるため、七十週は70×7=490(年)である。この期間全体が定められた時である。

「死海写本」のクムランに住む人々は「イザヤ書」
(40:3)荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
(40:4) すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
(40:5) このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
 悔い改めによって初めて主をお迎きする年を計算するとエズラがバビロンから引き揚げて神殿の再建を始める紀元前457年から69週目は483年であるから紀元前-457年+483=紀元26年~27年になる。
要するに、当時の人々が洗者ヨハネやイエスが布教し始めた一世紀のローマ支配の頃が終末になる。

洗者ヨハネのことを人々は「マラキ書」
(3・1)「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。
(3・7)あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。
の呼び掛ける預言者だと思ったのだろう。

このような計算のため、終末の遅延が起きた。パウロ書簡の中にも明らかに遅れていることが問題になっている記述がある。

テサロニケ第二の手紙
(2・2)霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙(テサロニケ書Ⅰ)によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

ペテロの第二の手紙
(3・4)「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」

ユダヤ戦争を終末と考え、終末の日は遅れていると当時問題になっていた。そして、現在の2000年後にもまだ起きてないない。このように考えると、当時のイエスはユダヤ教徒であり後世が今日のキリスト教を創作したという考え方もある。

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2010年11月 8日 (月)

イナゴはギリシャ語の誤訳

新約聖書マタイ福音書3章には、洗者ヨハネは「らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物とする人物であった」とある。
私は、戦後生まれであることと、イナゴを食べる習慣のない地域に育ったためイナゴの佃煮が高級品だと言われても食べれない。当時のヨハネは、動物性たんぱく質を摂取するために食べたのだろうと思っていた。ところが、ヘブライ語版マタイ福音書によれば、植物から作った平たいパン(出エジプト記のマナ)のようなものらしい。どうもイナゴはギリシャ語の誤訳でヨハネは菜食主義であったらしい。
ヘブライ語版マタイ福音書によれば、イエスは、「ヨハネは世を救うために遣わされた」と述べているのに対して、ギリシャ語版では、「すべてをもとどおりにするために遣わされた」とある。また、イエスは「およそ女から生まれたもうち、ヨハネより偉大なものはいない」といってヨハネのことを、自分より偉大な人物だと賞賛している。
どうも、後世のキリスト者によってヨハネの真実の姿が徐々に歪められてきたのだろう。

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2010年11月 5日 (金)

イエスの系図

イエスの系図はマタイとルカ福音書で書かれている。マタイはヨセフの系図でソロモン王からダビデ王に繋がっている。一方、ルカ福音書では、マリアの系図からソロモンの弟ナタンからダビデ王に繋がる。
我々にとってどうでもよいことのようだが、当時のユダヤ社会の言い伝え(旧約聖書)ではダビデ王の末裔でないとメシア(キリスト・救世主)になれない。イエス存命時代、ローマ帝国の傀儡政権のヘロデ王はこのダビデの末裔でないためユダヤ人には尊敬されていなかった。
マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ福音書の中では、マタイとルカがイエスの系図を書き記している。ギリシャ語の誤訳から処女で生まれることに合致させるため聖霊が宿ってイエスが生まれたとある。
最も最初に書かれたマルコ福音書と最後に書かれたヨハネ福音書には、イエスの系図は載っていない。しかしながら、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ福音書では、イエスは正式な婚姻関係にない両親から生まれた庶子、つまり姦淫の子を示す記述がいくつもある。
イエスが磔刑になったのは三十数歳で、マルコ福音書が書かれたのは紀元70年頃であるため40年しかたっていない。当時のユダヤ社会では、イエス出生は周知の事実であったのだろう。マルコの記述に「マリアの息子ではないか」(マルコ6:1) とあり、ヨセフの息子でなくマリアの息子と記したところで当時のナザレの人たちは庶子であることを知っていた。また、ヨハネ福音書にも「わたしたちは、姦淫によって生まれたのではありません。」(ヨハネ8・41)と明らかにイエスを侮蔑する記載がある。
更に、異端反駁で焚書扱いの「トマスの福音書」にも、「父も母もわかっているものが、娼婦の子と呼ばれるであろう。」とある。
聖霊でなければイエスの父とは、いったい誰であろう。

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