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2011年4月15日 (金)

心の貧しき人は幸い?

土肥隆一批判の中に以下のような解釈があった。
・・・・・・・中略
マタイ伝の「心の貧しき人は幸いなるかな、天国はその人のものなれば」という一節が思い起こされます。要するに自尊感情の欠損に苦しんでいる人は純粋だというのです。その脆弱な自己に正直である中から、信仰心への道が開けるというのです。この一節について、多くの日本のクリスチャンは「自分は罪深い人間だからせめてこの言葉にすがるのだ」というようなことを言うのですが、これも逃避だと思います。
そうではなくて、より精神的に追い詰められている人間の「心の貧しさ」を尊敬しなくてはならないのです。
・・・・・・・・中略

私は、土肥隆一を苦々しく思っているが、この部分の解釈は適当でないと思う。
マタイ福音書では「心の貧しい」であるがルカ福音書では「貧しい」と訳されている。
どちらがイエスの主張だろうか?
マタイ福音書の原典直訳では「霊において貧しい人は幸い」と書かれている。
新共同約聖書では、過去との整合のため、今もマタイ福音書で「心の貧しい」と訳されている。シュタイナーの聖書解釈では、「幸いなるかな、霊を求める乞食たち、彼らはみずからの内に天国を見出すであろう。」と訳されている。
本田哲郎神父の私訳聖書では、原書の意味を忠実に表現するため「心底貧しいものは神からの力がある。」と訳されている。誤訳とされる「心」:「プネウマ」のヘブライ語の聖書的な用法から言えば、もっと深いところから捕らえた人間丸ごとの意味で「心底貧しい人たち」と訳し、「幸いである」のもともとの意味の「祝福されている」は、ヘブライ語の原意は「まっすぐ突き進みなさい」の意味のため「神からの力がある」と訳されている。
即ち、「心底貧しい人たちには、神からの力がある。天の国はその人たちのものである。」との解釈である。
キリスト教的な実践とは、弱者への共感である。しかし、実際その弱者の立場と同じ視線で共感する事は容易でないというより不可能である。自分だけは部外者になって、つまり外にいて共感を叫んでいるのが現実だ。
イエスは、抑圧と差別の痛みを心底味わった者のみが持つ、欺瞞に対する敏感さと正義への渇望のエネルギーこそ、神の国をこの「地の上にも」実現させるものであると主張している。そして、イエスはすべての人が抑圧され貧しくされることを奨励しているわけではなく、現にいる小さくされた人々の感性を通してしか、抑圧と差別の貧しさから解放される手立ては見いだせないと主張する。
土肥隆一批判には賛同するが、引用したマタイの聖句を「自尊感情の欠損に苦しんでいる人は純粋」という意味に解釈する事には賛同できない。

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