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2011年6月

2011年6月30日 (木)

聖書の夫と妻、男と女の関係

欧米人は、早めに隠居生活に入り自由に暮らす。一方、日本人の多くは、天下りしたり会社にしがみ付く人が多い。これは、宗教的な倫理観の違いからだろうか?日本人社会は、宗教という基盤上に成り立っていない。聖書には、夫と妻、男と女の関係が記されている箇所がある。パウロが女性蔑視であったというより当時のユダヤ人社会がそうであったのだろう。以下の箇所は、プロテスタントでもカトリックでもあまり説教に使われないため聖書を読まない信者は知らない。

エペソ人への手紙 第5章
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
コリント人への第一の手紙 第11章
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。

実際カトリックでは、ここの箇所の規定から昔は礼拝中、女性は頭に被り物「ヴェール」をする。日本の皇室なども女性が帽子を被るのはこの影響なのだろうか?
イエス・キリストが言った訳ではないがパウロの書簡として新約聖書に含まれる。
福音書の中でイエスは以下のように述べている。
マタイ5章31~32
また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
マタイ19章(マルコ10章)
パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」

聖書に書かれた記載から現代と比較すれば男優位社会であるように思えるが、日本の2000年前と比較すれば遥かに女性の地位が高い。聖書による倫理観が教会を媒体として神と個人を結びつけている。この倫理観には、勤め人を管理して奴隷のように自由を束縛する『会社』は、存在しない。欧米社会では、年老いてまで会社にしがみつかない理由であろう。そして、聖書の倫理観に従い、築き上げた個人資産を公共のために寄付する人が多い。昨今の政治家を見ていると倫理観や自尊心などない人たちの集まりだ。

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2011年6月28日 (火)

科学者と宗教者は、価値観が似ている

NHK深夜便という番組の中で「遺伝子の謎に挑んで」という講話があった。興味深かったのは、何十億年にわたって遺伝子は引き継がれているが、98%は解明されていないことと、後天的な環境の影響で生き様が大きく変わることだ。そして、地球生命体として自然界の動植物は繋がっていて、その生命の発生する確率は天文学的数字だという内容だった。科学者という職業の人たちは、自然の摂理の研究から自身の矮小なことを悟るのだろう。一方、宗教は神への畏敬の念から同様の謙虚さがある。創世記1章26節において、神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と書かれている。科学者のいう自然は、「現実世界」であるが、宗教の神は人が創ったものだろうから「バーチャル世界」である。両方とも、よくわからない世界として乱暴に括ってしまえば、神と自然は同義語のような気もする。科学者と宗教者は、価値観が似ているが、取り組み方は全く違うように思う。
キリスト教しかわからないが、基本は上から目線ではない弱者への共感である。全てとは言わないが、科学者の場合は、研究から自身の矮小なことを悟っても生き方に反映されていない場合が多い。自分は、知識者として人に教えるという世界に落ちいって悟りとは程遠い。某年老いた元プロ野球監督が、選手を再生して活用する手法を大いに褒めていたが、企業内では費用対効果で数値が計られるため当たり前のことである。それより、いつまでも女々しく監督解任の件を訴え続ける姿に呆れてしまう。
そして、マタイ22章を思い出す。
「それで、僕たちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『友よ。あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王は僕たちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」という行がある。
ここで言っていることは、キリスト(王)を、宴会場(最後の審判)で救い主として受け入れることを『礼服を着る』といっている。私はこの箇所を、突然くるかもしれない死を受け入れる準備と解釈している。
自然の摂理に従えば永遠に生きる生命体はなく個々は小さな存在である。棺桶に足を突っ込む年になっても、自分のこととなると全く自然の摂理を受け入れようとしない姿だ。生命体の遺伝子には他を押しのけてでも自分は生き延びるという内容が刻まれているのだろうから、頭で理解していても徳を積んでいなければ弱者への共感は容易ではない。
そして、自分のことを棚に上げていっている私も、全く同じ輩であることに気づかされる。

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2011年6月26日 (日)

人は微分世界に生きている

小説を読んで素敵な女性に膨らましていた登場人物が、映画化された女優でがっかりさせられることがある。事件が起きるごとに思うのは、現実とバーチャル世界の使い分けができないことだ。最近、ネットの発達で本を読む機会が少なくなったことで想像力が低下しているのだろうか?
日本のような民主的な法治国家であれば、犯罪を犯して捕まれば処罰をうける。地球の成り立ちや生命起源の崇高さを考えれば、神のなせる技のため、現実とバーチャル世界の境界が曖昧になってくる。徳を積んで感謝の思いで生きている聖人は別だが、人は日々の変化を比べて喜怒哀楽を感じている。要するに、人は、それぞれ微分世界に生きている。
現実とバーチャルの違いは、人に迷惑をかけるかどうかの違いである。想像力をたくましくすれば、バーチャルの世界でも十分満足できる。
マタイの福音書に、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」という教えがある。
こんな律法が適用されれば、ほとんどの人は犯罪者である。しかし、ありがたいことに『情欲をいだいて女を見る』ことは、神の前では姦淫だが、見るだけであれば刑法上は処罰の対象にならない。人は、そこそこ食えればあとは気持ちの持ちようだろうから、賢く立ち回れば人生が楽しくなる。職業上避けがたい人以外は、付き合わなければ煩わしい人間関係を回避できる。バーチャル世界では王様にもなれる。
大きなお世話かもしれないが、以前の上司が、嘱託身分の取るに足らない仕事に薄給でしがみついているのを見ると、人生観を持つことはつくづく重要だと思う。

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2011年6月25日 (土)

「表現の自由」とは何か?

つボイノリオの金太の大冒険というレコードが1975年に発売された。当時、これは面白いと購入したが、発売後20日で日本民間放送連盟で放送禁止になった。引越しの手伝いに来た後輩が是非欲しいというので記念にあげてしまった。歌詞は以下の文言くらいしか覚えていなかった。

金太 負けるな(金玉 蹴るな)
金太 マスカット ナイフで切る(金玉 スカット切る)
金太 マカオに着く(金玉 顔に付く)
金太 待つ 神田(金玉 掴んだ)

最近は、放送禁止指定楽曲(要注意歌謡曲指定制度)が消滅したため放送可能になったらしい。早速、YouTubeで探して「つボイノリオの金太の大冒険」を聞いた。
何度聞いてもおかしくて笑える。この程度の歌詞でなぜ「表現の自由」が制約されるのかと疑問に思う。昔は、青江三奈の「ため息の部分」をNHKの紅白で歌うことは不適切だと削られたのを思い出す。そして、青江三奈のように髪の毛を赤や金髪に染める女など娼婦のように蔑まれていた。
最近の女性ファッションと比較すれば、馬鹿げた議論をしていたものだ。昨今、痴漢が非難される中、昔のシミーズに股引で街中を闊歩している女性側の姿に問題はないのかと言いたい?
更に酷いのは、日本高等学校野球連盟が球児と関係のない不祥事で「出場自粛」や「丸刈り」、「優勝祝賀会の内容」、「応援の服装」、「特待生の入学」とありとあらゆる干渉を高校側に行なっている。高野連とは、高校野球人気を背景に勝手に規則を作り、「いちゃもん」をつけて自己顕示欲を満たす最低の面々だ。本来なら高校スポーツを一律にした規則を作り、高野連などが口出しすべき問題ではない。

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2011年6月23日 (木)

日本の政治家とクラウドコンピューティング

日本の政治は空白が続いているが、ネットワーク社会は、猛スピードで進化している。
近年、クラウドコンピューティングという言葉が盛んにもてはやされる。
分かりやすい環境例では、GoogleやYutubeである。ユーザがサーバー管理やアプリケーションなどを意識しないで簡単に使用できる環境だ。個人や中小企業など、ホスティングなどは、海外にサーバーを置いて安価に運用している例が多いであろう。実際、使用者側は、GmailやHotmailなどどこにサーバーがあるかなど意識しない。
システムのクラウド化により企業アプリケーションの生産性が5~12倍上がるとか、(メリルリンチの予想だが)2011年のIT投資74兆円の内12%、2014年には全投資額の60%がクラウドに投資されるという。
クラウドとは基本的に効率化をする管理技術である。今までと何が違うかといえばクラウドコンピューティングの前はシステムの仮想化で人を増やして管理していた。クラウド化で100対1以上の効率化になることもあるという。Amazonなどはサーバー管理を従来100台/人だったものを1000台/人で管理するという。

ところが、全てがそれで運用可能かといえばそれほど単純ではない。データの分析などBI(Business ntelligence)の部分はクラウドでも可能だが金融系の勘定業務(障害を起こしたみずほ銀行の業務)システムは無理である。つまり、コンピューティングといっても目的によって使い方の種類が違う。
GoogleやAmazonなどをパブリッククラウドといい、企業ベースのクラウドをプライベートクラウドと呼ばれていて、それを併用したものをハイブリッドクラウドという言い方をしている。そして、クラウドコンピューティングで特に重要なのが、クラウド上の分散データベースをどうするかである。
Google、Amazonなどクラウドを運用しているシステムは、スケール・アウトで構築して商用DBなど使用しない。Googleなどは、トランザクション処理が必要な顧客がいないと割り切った考え方でスケール・アウトで高速化している。商用DBの欠点は、Googleレベルのデータ規模が大きいものには、向かないことと価格が高いことである。極端な言い方だが、クラウドコンピューティングの進化はDBの変化を追いかけることである。

ところで産業界は、日進月歩の適者生存の世界である。後先を考えずに思いつきで原発を止めた愚か者は詐欺師集団の政治家は務まっても企業では使い物にならない。水着コンテスト程度の経験しかない大臣が、額に汗してスーパーコンピュータを開発している技術者を揶揄しているのを聞くと『陽の沈む国』になったと感じる。権力闘争と目立つこと以外に興味のない人たちが日本の政治家であっては困る。

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2011年6月17日 (金)

神は存在する

「神は存在するか?」という問いに、現代人の多くは否定するだろう。また、肯定する人から詳細に聞いても「鰯の頭も信心から」という信仰が多い。
似非クリスチャンの私は、長い間、牧師や神父、教会員と交わる機会があったし、関連図書も少し読んだつもりでいる。シスターで臨死体験された鈴木秀子さんの著書のなかに「我々は神の母胎の一部である」という主旨の内容がある。私は、この感覚を拡大解釈して「内なる神」と捉えている。宗教は造られたものだと言ってしまえば、キリスト教の旧約聖書も正にその通りだ。旧約聖書のなかにバビロニアから解放された後に、ペルシャ支配の自治のためにネヘミアやエズラによって作成されたらしい記述がある。一方、新約聖書にしてもユダヤ教改革派のイエスの著書ではなく後世の人たちが編纂したものだ。そして、キリスト教の新約聖書に従い皇帝の権威は神によって立てられたものだとして、皇帝の継承を目的に三身一体のアタナシウス派(カトリック)を正統派と見なした。旧・新約聖書は同一神だから、旧約聖書(出エジプト記3章14節)に記されたように「モーゼがヤハウェから受けた言葉:我は有りて、在るものなり」で姿・形はない。カトリック教会のイエス像、マリア像などは、旧約聖書(出エジプト記24章4~5節)の「あなたはいかなる像も造ってはならない。……あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」という掟から離れてしまっている。プロテシタントにしても聖書中心主義のため簡単な十字架の印を教会に置いているだけであるが、人前で長々と自分の思いを祈りイエスの教えとは離れている。(マタイ6章5~6節)
どちらの教派も長い歴史の中を生きてきたものなので、今更変えることはできないだろう。この問題を単刀直入にカトリックの神父さんに聞くとロザリオ(カトリック教会における数珠状の祈りの用具)なども仏教から真似たものだと教えてくれた。少し、話がずれてしまった。

私は「我々は、神の母胎の一部である」を拡大解釈して宇宙全体のイメージで神を想像する。宇宙には水素とヘリウム元素しか存在しなかったものが、超新星の爆発で炭素や酸素などを含んだ塵やガスができた。そして、その残骸が惑星の材料となり、地球が生まれ、その地球から生まれたものが私たちである。こう考えると、創世記2章7節にあるように「 主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」という記述とうまく一致する。そして、人を構成するものは、宇宙の塵だから創世記3章19節にあるように 「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」として死後土に帰ることでつじつまが合う。こじつけかも知れないが、「神は存在するか?」への私の解である。つまり、宇宙を神と捉えることにより神の存在を感じることができる。
ところで、私は鈴木秀子さんのように臨死体験もなければ超能力を持った経験もないが、私の周りで不快にさせた友人が自殺したり、短命だったり、再起できない事故あったりしている。また、会社でも私を陰で批判していた人たちが不思議に不遇になったり左遷させられた。神は、そこまでしなくともいいのにと思うくらい厳しい罰を与えた。
神の摂理というものは、「存在する使命が不要になったものは『自らに内在する神の遺伝子』に従い土に返る」のだろう。
参考
http://iwamigin.vsp3.com/shuchou/

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2011年6月16日 (木)

語学は道具

仏映画はフランス語の響きがいいので見ていて楽しい。映画を見ていて40年くらい前に、ユーロエルパス(鉄道の周遊券)を使ってヨーロッパを旅行したことを思い出した。電車でドイツからベルギーに入った時に、検札に来た車掌が独語・仏語・英語で客の顔を見ながら言語を使い分けていた。語学は重要だと思っていたが、車掌さん位でも何ヶ国語も話すのには驚かされた。「ダ・ヴィンチ・コード」や「プライスレス 素敵な恋の見つけ方 」に出演しているフランスの女優さんオドレイ・トトゥもバイリンガルだが、オードリー・ヘップバーンやジョディ・フォスターなども何ヶ国語も話すらしい。また、ハリウッド映画スターのジャン=クロード・ヴァン・ダムが仏語を話していたので驚いたが、彼はベルギー人なので納得した。フェリーニの「道」でザンパノ役のアンソニー・クインもイタリア人かと思えば父はアイルランド人、母がアステカ族系メキシコ人というから何ヶ国語も話すのだろう。
ずいぶん前に仕事で知り合った中国人に、「語学は重要だと思い勉強したつもりだが未だにできないのは才能がないのだろう」と言ったところ、「必要がないから覚えないのだ」と言われたことを思い出した。確かに、英語圏の一般人でバイリンガルは少ないような気がする。昔、米国で「将軍」という日本料理店で米国人と下手な英語で話しながら日本語で注文(ママさんは日本人)していると「彼はバイリンガルだ。」という話し声が遠くから聞こえてきた。内心嬉しかったが、こんな下手な英語がファーストランゲイジだというなら私は白痴である。そういえば、高校の英語教師が、外人に「何年間、英語を勉強しているか?」と聞かれたら「半年と答えなさい」と言われたのを思い出した。理由は、相手の外人がお前のことを白痴だと思わないためだそうだ。
ところで、20年以上前に現地中国人と香港で技術打ち合わせをした時に下手でもいいから通訳を入れないで欲しいといわれた。専門的な単語が分かれば意図するこが理解できるため、専門性のない通訳を入れると相手が不安に思うのが使いたくない理由らしかった。確かに語学は道具でしかないため、私の勤めた会社でも語学訓練を推奨はしていたが語学そのものの評価は全くされなかった。宇多田ヒカルがせっかく名門のコロンビア大学に入学したのに半年も通わなかったのは、多少話せても学業について行けなかったのだろう。日本は卒業が簡単なのに通わなかった広末涼子も同様だろう。本人たちは忸怩たる思いだろうが、これらは自己責任だ。しかし、目立ちたがり屋の政治屋が能力もないのに重要な役職に着いて国民や被災民に迷惑をかけるのは話が違う。即刻、辞めて頂きたい。ルーピー鳩山・ペテン師菅・アナーキスト仙谷・紅衛兵蓮舫といい加減にして頂きたいものだ。

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2011年6月11日 (土)

剽窃批判は、ゴミにたかるハエ

NHKの深夜便のライブラリーにいくつか登録されていた。失礼だが新井満という名前は全く聞いたことがなかった。昨年から北海道の田舎で暮らすというから「物好きな人もいるなぁ」と思いながら聞いていた。ネットで調べると「千の風になって」という歌の訳詩・作曲者であった。
職業がら、ここ何十年も新聞は日経、雑誌はコンピュータ関連しか読んでいないため世の中のことに非常に疎くなっていた。流石に、秋川雅史が歌っている「この歌」は聞いたことがある。本業が電通社員というから才能のある人だと感心した。同じ●通でも妻の親父に「日通の子会社か?」と聞かれたのとえらい違いだ。
有名税なのかもしれないが、この歌の訳詩に対して剽窃批判があるらしい。
原文は、以下の通りで著作権がないとのことだ。

Do not stand at my grave and weep
I am not there; I do not sleep.
I am a thousand winds that blow,
I am the diamond glints on snow,
I am the sun on ripened grain,
I am the gentle autumn rain.
When you awaken in the morning's hush
I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft stars that shine at night.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there; I did not die.

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
・・・・・

歌の歌詞に訳したため原作からかなり離れているような気がした。原文には、「千の風」という文言が一度しかないのに、訳詩では何回も繰り返されている。訳詩というより創作に近い感じがする。
私には、なぜ、これが剽窃なのか理解できない。
原作者としたなら原作の著作権に対する剽窃批判であるが、英文を和文にして出版した同業の訳詩者からの厳しい批判には驚かされる。ネット上に批判者の訳詩もあったが、かなり内容が違う。原文が同じなのだから翻訳すれば表現が似てくるのは当然なような気がする。
だいたい、私みたいな横着者は、今日まで「私のお墓の前で泣かないでください」と「千の風になって」という箇所しか頭に残っていなかった。剽窃問題に興味をもって初めて全文の歌詞を読んだのが実態だ。つまり、私の場合には曲がいいから頭に残っていたので訳詩なんかどうでもよかったのだ。作曲者が新井満なのだから剽窃批判は言いがかりのような気がする。
以前の教会で個人的に知っている電通の人は、非常にいい人であったが多少自己中心的な物の見方をするのが気になった。また、海外出張(フランクフルト?)時に偶然となりのテーブルになった人が電通社員であったが話し方が不快だった。会社と距離を置かない印象が電通マンの特徴のように思った。
広告・宣伝業という職種は、個人レベルでも厳しい競争社会なのだろう。どんな世界でも数値がでないと商業的に成功とは言えない。新井さんは電通に務めていたから誹謗中傷する人と多少価値観が違うのかもしれない。商標登録の批判まであったが、私の勤め人社会では商標や特許を取得するのは当たり前の話で、批判は不適切なものだ。しかし、北海道への移住が人付き合いに辟易されたのならお気の毒なことだと思った。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/
Do_not_stand_at_my_grave_and_weep

後日、新井さんの「千の風になって」を図書館で読む機会があった。2003年の第一刷本に「1000の風になって」を参考にしたことが長文で記載され、「1000の風になって」の作者にも敬意がはらわれていた。レイシストまで巻き込んだ無秩序な批判は、自分自身を卑しめる結果になる。昔、将棋界で升田幸三が木村14世永世名人に対して「舛田:名人など所詮はゴミのようなもの」と言ったことに「木村:じゃあ君は一体なんだ?」と言い返したところ『舛田:ゴミにたかるハエだな』と開き直った話を思いだす。

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2011年6月 9日 (木)

「ローマ人の物語」なんかを読んでもらっては困る。

毎日新聞に伸子婦人が、「菅さん、塩野七生さんの大ファンで、全15巻のローマ人の物語も読破したらしい。」とあった。私は、塩野七生の「ローマ人の物語」の中でキリスト教の歴史に大きく影響を与える数巻しか読んでいないが、あんな時代の考え方を現代日本の政治に取り込まれたら、たまったものではない。当時、キリスト教を皇帝支配と継承の道具として利用するためカトリック教派を成立させた。そして、あの時代の価値観は、権力を持った途端に、禅譲してくれた先帝を裏切ったり、その妻を殺したりした歴史である。私は、カトリック教会成立の暗部だと思い反面教師として「ローマ人の物語」を読んだ。もし、菅直人の価値観があの時代であれば、鳩山由紀夫に「ペテン師」と呼ばれるに相応しいと思う。そして権力の維持のためなら周りの連中の生死や世話になった人への義理などどうでも良いと考えているのだろう。確かに、世間の失笑にも臆せず東日本大震災の被災者のことなど全く考えず権力の維持だけを考えれいる姿には哀れを感じる。額に汗して働いた経験もない政治家が「ローマ人の物語」なんかを読んで共感してもらっては困る。

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2011年6月 5日 (日)

年金生活もままならない世の中

サラリーマン時代は、大手コンピュータ製造会社に勤務していたこともあり事業内容や事業領域の枠が決められていた。若手技術者として勤務していたころは、企業というものは計画通りに粛々と運営されているものと思っていた。歳を重ねるうちに、統括する立場になって思ったことは、情報産業とはいい加減なものだとということだ。
一般の業種に比較して技術革新が早いため、最新と思われた技術がすぐに陳腐化してしまう。今日のインターネット社会は、2000年以降のわずかな間に全世界に普及した。(正確にいえば1990年ころがOSIなど含め萌芽期であった。)古い記憶を蘇らしてみよう。サーバの切り口から過去の流れを見ると、1960年代に始まるIBM360システムのホスト集中からSNA(System Network Architecture)でネットワークに広がった。次にオープン化の流れでクラサバ・システムに移行しリッチ・クライアントが主流となったが、TCOの観点からCitrixのメタ・フレームやインフラのTCP/IP対応などでブラウザをフロント(シン・クライアント)とするネットワークシステムが主流になった。一方、ネットワークの流れでは、1980年代はホスト・セントリックであったものが、1990年からオープン・ネットワーキングに移りPC-LANによるダウンサイジングでルータ・ネットワーキングに移行した。更に、2000年以降インターネットの普及によりIPセントリックとなりWEBトランザクションでアプリケーションとの連携が緊密になった。そして、モバイルがネットワーク端末の主流となった。今後は、更にネットワークの仮想化が進みつつある。このように見てくると、主流となって残った技術は必ずしも素晴らしいものではなく、その時代で安価で普及したものだ。安価で機能があるものが常に生き残ってきた。要するに、無償で儲かるビジネスモデルを作った企業が生き残ってきたのが実情だ。この観点から言えば、Linuxベースのモバイル用オープンソース・オペレーティングシステムAndroid(アンドロイド)によってスマートフォンやタブレットPCなどの携帯情報端末が席巻されるのは時間の問題だ。事業領域を割り当てられた大企業など、この流れに付いて行くのは容易でない。半導体メモリ価格の下落でフィルムからCCD(デジカメ)にあっという間に移行したことは予想しずらかった。テレビもネットワークが安価に普及したため情報源としての役割は大幅に低下した。更に、古くからのコンピュータ製造会社(実情はアセンブリー)や事務機(コピー機など)製造会社などは事業環境が激変して非常に厳しいものがある。公務員と違い企業経営は、既存の事業領域の枠内で長期に生き残ることは容易でない。

ところで、人は生きていくために稼がねばならない。特段、やりたいことが無ければ楽して食えればいいと思う。公務員が天下りするのは、どこの市場でも不要な人材だからだろう。実際、経済活動を全くせずに老人になった人など一部の専門家以外は使いようがない。稼ぐ手段として、恥を偲んで退職後に嘱託で勤めたり、子会社に天下りして蛭のように会社の生血を吸いながら保身を図る人も多い。それが嫌ならサラリーマンを辞めた人は、起業するしかない。私事で恐縮するが、起業した途端に事業の選択と集中やキャッシュフローの重要性が身にしみる。サラリーマン時代は、耳にタコができるほど聞かされたが真剣に取り組んだ記憶がない。起業して資本家であり経営者の立場になると真剣さが違ってくる。そして、事業の選択と集中を最大限進め、換金性を含めた事業展開を考慮すればファイナンスが最も効率がよくリスクが少ない。少子化が進み老齢化社会が訪れた日本では、年金生活もままならない世の中になる。若者におんぶに抱っこに肩車的な考え方から早く自立すべきではないだろうか?

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2011年6月 3日 (金)

愚かな最低の人たち

菅首相は、昼にあいまいな首相退陣示唆し不信任決議を否決した途端に、夜の記者会見で早期退陣を否定した。首相は嘘つきだと鳩山由紀夫は批判したが、滑稽で笑ってしまう。自分が母から相続した遺産について散々嘘を言ったことは忘れてしまったのだろうか?共産党にしても社民党にしても党利党略で棄権し、事実上「相手を騙すこと、人を欺くことしか頭にない」菅内閣を信任した。東日本大震災の被災者のためといいながら自分のことしか考えない人々だ。政治家の騙し合いは、当人や老人には「またか」で済むが、小さな子供や若い人たちの教育によくない。額に汗して働いたことがなく、相手を騙すこと、人を欺くことしか頭にない、最低の人たちが政治をやっているのでは困ったものだ。

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