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2011年6月30日 (木)

聖書の夫と妻、男と女の関係

欧米人は、早めに隠居生活に入り自由に暮らす。一方、日本人の多くは、天下りしたり会社にしがみ付く人が多い。これは、宗教的な倫理観の違いからだろうか?日本人社会は、宗教という基盤上に成り立っていない。聖書には、夫と妻、男と女の関係が記されている箇所がある。パウロが女性蔑視であったというより当時のユダヤ人社会がそうであったのだろう。以下の箇所は、プロテスタントでもカトリックでもあまり説教に使われないため聖書を読まない信者は知らない。

エペソ人への手紙 第5章
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
コリント人への第一の手紙 第11章
すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。祈をしたり預言をしたりする時、かしらにおおいをかけない女は、そのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。

実際カトリックでは、ここの箇所の規定から昔は礼拝中、女性は頭に被り物「ヴェール」をする。日本の皇室なども女性が帽子を被るのはこの影響なのだろうか?
イエス・キリストが言った訳ではないがパウロの書簡として新約聖書に含まれる。
福音書の中でイエスは以下のように述べている。
マタイ5章31~32
また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
マタイ19章(マルコ10章)
パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」

聖書に書かれた記載から現代と比較すれば男優位社会であるように思えるが、日本の2000年前と比較すれば遥かに女性の地位が高い。聖書による倫理観が教会を媒体として神と個人を結びつけている。この倫理観には、勤め人を管理して奴隷のように自由を束縛する『会社』は、存在しない。欧米社会では、年老いてまで会社にしがみつかない理由であろう。そして、聖書の倫理観に従い、築き上げた個人資産を公共のために寄付する人が多い。昨今の政治家を見ていると倫理観や自尊心などない人たちの集まりだ。

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