「ただの仲良しごっこの愛」
本田哲郎神父の「続小さくされた者の側に立つ神」の冒頭で、日本カトリック教会の戦争責任について触れている。カトリック教会としての反省と責任を負う決意がなされない・・・に続き以下の文章がある。
《残念ながら、こうしたキリスト者の無神経さの原因は、少なからず教会の福音理解の甘さにあると思う。愛し合うこと、和解すること、一致を大切にすることが福音の教えの帰結であるかのように錯覚して、それらの前提もしくは土台として神が要求している正義、痛みを共感するところから出る怒り、抑圧する者との対立、差別する側との分裂の福音的な価値を見過ごしている。これらの土台を欠いた愛はただの仲良しごっこであり、和解したつもりでもそれは不正を飲む妥協に過ぎず、一致を大切にしたつもりが体制への迎合に終わってしまう。》
似非クリスチャンの小生でも、教会内の「ただの仲良しごっこの愛」を痛感する。もちろん、小生の場合は矮小な点からで、本田神父のような「俯瞰の目線」ではない。聖書は、旧約聖書と新約聖書から成りたっている。そして、旧約聖書はユダヤ教から引き継いだものだ。当然、バビロニアの奴隷(バビロン捕囚)として過ごした差別への怒りや痛みなしには成立しない。つまり、本田神父が特に強調している「痛みを共感するところから出る怒り、抑圧する者との対立」がなければ、キリスト教の福音は成り立たない。私の過ごした教会(プロテスタント教会、カトリック教会)は、この辺が全く欠如していて、信者の多くは教会をサロン化していた。事実、雑談の中で私の尊敬するT神父は、「本当のクリスチャンは教会には来ないものだ。」と仰っていた。もちろん、オフィシャルに言われたわけではないため、教会内部の信者の質を嘆いての発言だろう。更に、プロテスタント教会の場合は信者の質以前に、神の名で自分の勝手な解釈を織り込む牧師が問題だと痛感させられる。カトリック教会の場合は、信者と異質な神父やシスターが共生するためプロテスタント教会より多少ましなような気がする。
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