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2012年3月22日 (木)

体面を気にしない生き方

キャリアを積むに従って転職で高位のポジション(高給)を得る人が話題になる。しかし、全く逆の場合も多いことは知られていない。私が勤務した1980年代前半、ミネソタ大学出身の米国大手コンピュータ会社で高給を得ていた人材を営業のトップに迎えていた。当時、営業職は白人でなければ勤まらない時代であった。サンノゼに移り住んで日系企業に勤務することは何か事情があったのだろう。彼の場合は、売り上げを達成できずに解雇される前に辞職していった。そして、最後は昔の部下だった友人と二人で小さな商売をしていたと聞いている。大企業で活躍した人材が、必ずしも転職して上手くいかない事例だろう。日本も同様で、某大企業で高位のポジションを得たからといって、優秀とは限らない。高級官僚や東電が天下り先を作るのは、自分たちが自由競争社会で通用しない人材であることを理解しているからだ。大企業の高位管理職や担当職レベルであっても、これと同様に肩書きがなければ全く仕事ができない輩が多い。新卒の学生が就職で大企業や公務員を目指すのは世相を敏感に読み取っているからだろう。オリンパス事件などを見ていると会社の損失には無頓着でも自分のマンションは早々と他人名義に書き換える。東電に至っては、原発対応の疲れで入院中の社長が、一億円の住宅ローンの返済を行ったと聞いて呆れてしまう。大木に留まるセミ同様に蜜を吸い尽くすまで会社を離れない。身近でも、肩書きがある時は偉そうなことを言って他人をリストラしたくせに、自分のこととなると、閑職に左遷され疎まれながらも最後まで会社にしがみ付いてサラリーマン人生を全うする輩もいた。全くリスクを伴わないで過ごした人々の一生とは学ぶべきものが少ないため空虚なものではないだろうか?所詮、日本のサラリーマン社長に経営者の資質や倫理観を求めることなど無理なことだ。勤め人を終えた今、改めて考えてしまう。

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