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2012年7月 5日 (木)

私の人生の目的とはなにか?

思春期に、人はなぜ生きているかを考えることはなかった。先日、何十年も前にタイムスリップした後遺症と病床の学友のことが原因だろうか?生きる目的がかすんできた現在、もう一度「私の人生の目的とはなにか?」につて断片的にこれまで考えたことを纏めてみた。
10年位前に、『死ぬ瞬間』で有名なキューブラ・ロスの著書を読み漁ったことがある。その中に『人生は廻る輪のように』というタイトルで彼女の波瀾万丈の半生が書かれている著書も読む機会があった。取るに足らない私の目からでも、力強く神の意思を受け継ぐ人とは、こうゆうものかと感動した。ところで、キリスト教は輪廻転生を否定しているが、これは後世になって(紀元553年コンスタンチノープル第二回宗教会議)新約聖書にある輪廻転生の記述削除を決めたもので、元々は転生の考え方はあった。キューブラ・ロスは、晩年、幽体離脱を経験し、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めている。『輪廻転生(J.L.ホイットン著)』の中でも「生と生のはざまの意味するものを慎重に選ぶか無計画に選ぶかの差はあっても、この世の環境を選ぶのは私たち自身である。」とある。牧師の息子カール・G・ユングも「心は昨日や今日できたものではない。その年齢は何百万年を数える。しかし、個人の意識は、多年生の地下茎から成長し、季節にあった花と果実をつける枝にすぎない。もし人が地下茎の存在を考慮に入れるなら、これは心理とよりよく合うだろう。というのは、もつれ合った根は万物の母だからである。」と考えている。そして、敬虔なプロテスタント信者であったエドガー・ケイシーも「肉体は、あらゆる時を漂いながら常に同一のものとして存在する霊と魂にとっての乗り物に過ぎないのである。」と霊的啓示をしている。『永遠のエドガー・ケイシー(たま出版)』

キリスト教会は、輪廻転生を否定しているがキリスト教信者の中には隠れた肯定派もいる。私も妻も似非クリスチャンであるが、輪廻転生の肯定派である。さらに、シスター鈴木秀子の関連著書や『かいまみた死後の世界(レイモンド・A.ムーディ著)』から魂と肉体は別であると思っている。そうは言っても「鰯の頭も信心から」と非難されては困るので妻と体外離脱に挑戦してみた。体外離脱の方法は、ヘミシンクという音響技術で、通常の意識ではなかなか体験できないような状態を作り出すことが可能だという。ロバート・A・モンローが開発した方法である。そこで、以下の家庭学習用シリーズを購入し体験してみた。
Wave Ⅰ-ディスカバリー(発見)    Focus 10
Wave Ⅱ-スレッショルド(境界点)Focus 10, 12
Wave Ⅲ-フリーダム(自由)Focus 10, 12
Wave Ⅳ-アドベンチャー(冒険)    Focus 10, 12
Wave Ⅴ-エクスプロアリング(探索)Focus 12, 15
Wave Ⅵ-オデッセイ(旅)Focus 12, 21
妻は1年程度、私は5年程度、聞いてみたが、体外離脱までには至らなかった。ただし、ベットの上で体が共振するレベルまでには到達した。『見ずに信じる者は幸いだ。(ヨハネの福音書20章)』と聖書にあるが、やはり体験できないものは確信して話すことはできない。そこで、「元々、宇宙には水素とヘリウム元素しか存在しなかったものが、超新星の爆発で炭素や酸素などを含んだ塵やガスができた。そして、その残骸が惑星の材料となり、地球が生まれ、その地球から生まれたものが私たちである。」ということは現代科学でも承認された事例である。しかし、『塵にすぎないお前は塵に返る。(創世記3章19節)』では魂の転生とはいえない。魂の存在や来世での転生は死後にしか解からない。キューブラ・ロスが死に逝く夫(元)に託した(あなたに分かる方法で死後の世界があることを証明してみせると約束して雪の中に赤いバラを咲かせて見せた)ように、私たちも先に逝ったほうが何かを暗示することにした。生きる目的は、転生があるなら今生で必要なものを学ぶために生まれてきたのだろう。そして、今生では、「私たち自身が宇宙的な母胎の一部であると感る。」ことを目的とした。
http://iwamigin.vsp3.com/shuchou/mokuteki/index.htm

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