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2014年6月11日 (水)

若かったときの思い出としては懐かしい。

Search 歳を重ねることは、できないことを悟り願望を捨てることだ。愚生の歳になると、これからのことよりも過去を思い出して懐かしむことが愉しい。息子が、会社が忙しいといいながら、早朝の7時前に出勤し、夜遅くに帰ってくる。若い頃を思い出すと、愚生にも同じような時があった。今から思い出しても、ほんとうに忙しかった。日の丸コンピュータの黎明期に、IT企業で勤め人をした。当時は、労働法など、それほどうるさくなかったため、土日休日出勤など当たり前だった。日本HPとシャトルプリンタのOEM契約が成立し、中国、台湾、日本、韓国向け仕様のインターフェイス開発に従事していた。開発効率を上げるため、ハードは同一仕様にして8インチFDで各国語対応した。今のパソコンやスマホでは、言語の違いをソフトで吸収するのは普通だが、30年くらい前としては画期的だったと思う。無理な工程の商談だったが、断れば契約できないので受けざるをえなかった。元々、作業工数が足りないうえに仕様が固まらなかったため開発が遅れた。日本HPの部長さんからは、失敗すれば自分の首が飛ぶと泣きつかれ辛い立場だった。当時のF社では、30歳そこそこの愚生でも、HP仕様のインターフェイス設計の権限を全て任されていた。グループの取りまとめ役の愚生は、HP向け以外の仕事も兼務していた。しかし、F社にいるとHPの仕事に専念できないだろうと言われ、HP社内で開発することを呑まされた。日本HPの開発拠点は、八王子市にあったため、自分を含めチーム全員が自宅(横浜)から通勤することとなった。朝、6時に家を出て、最終電車に間に合うよう帰ると自宅に着くのは11時半くらいだった。プロジェクトが終了するまで、何ヶ月も土日も含めて通勤した。もう一度やれといわれても、今の愚生にはその気力はない。今から思うと、とんでもない時代だったが、若かったときの思い出としては懐かしい。

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