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2016年6月 3日 (金)

最後には孤独との向かい合わせ

Ojiisan 長生きすることは、良いことなのだろう。ただ、あまり長生きすると周りが先に逝ってしまうため、最後には孤独との向かい合わせになる。少子高齢化の下、核家族が進み、老人が非常に長生きするため、介護人がいなくなった。たとえいたとしても、介護人自身も老人や病人になってしまっている。そのせいで、義母は独居老人として介護施設に入居している。介護施設は老人の生活環境としては、至れり尽くせりなのだろうが、本人が幸せだと感じるかと言えばそうでもないようだ。健脚だった義母は、脳溢血の後遺症から、記憶力がなくなり一人歩きができなくなった。田舎に帰った折に、介護施設に立ち寄っても、どこか元気がなく寂しそうだった。愚生の母も長野の軽井沢付近の施設に居る。東京から会いに行くが、毎月定期的に訪問することがわかってから少し元気になった。次にまた必ず会えると思うと、以前のように別れ際に寂しそうな顔をしなくなった。友人の母も、デーケアを勧めると、最初は体調が悪く吐きそうなのに行かせるのかと毒突いた。しかし、老人に優しい施設とわかってからは喜んで行っているという。ただ、手続きなどの支援に感謝の一言もないというから、げんきんなものだ。今は愚妻も入院しているため、愚生自身も独居老人だ。妻の体調が悪かったせいで、ずいぶん前から家事を分担していた。そのため、一人で暮らすのに不自由はない。そうはいっても、将来の明るい話があるわけでもない。老後とは、時間を持て余すと思っていたが、介護施設や病院に足繁く通うのが日課になってしまった。

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