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2016年12月31日 (土)

長生きには、いったい何文の得

C_1497_14_20070817_075439_03_v 今日は大晦日、一年の終わりのだ。一年を振り返って見て、何が愚生にとって大きなことだっただろうか。スポーツでは、リオ・オリンピックの活躍、作新学園の甲子園優勝、日本ハムの日本一といろいろある。しかし、どれも愚生の贔屓チームではないため、それほどの感激はない。他人には、つまらない事だろうが、愚生にとっては妻の長期入院だ。平生当たり前だと思っている健康が、いかに大切かをつくづく思い知らされた。健康に限らず、人は失くして初めて気づく事が多い。元気印のような友人が、頭が痛いと言いながら、病院にも行かずに脳溢血で死んでしまった。無病息災というが、実際は一病息災のほうが健康には良いのかもしれない。長生きを望む人は多い。しかし、長生きをしたからどうなのかと問われると、答えに窮する人も多いだろう。多くの高齢者が、良かったと思える人生を歩んだかと言えばすべてがそうとも思えない。愚生の母も、年明けた三月に卒寿となる。会えば、自分は長く生き過ぎたと愚痴を溢す。その一方で、インフルエンザの予防注射などには、怠りがない。愚生が小さい頃は、還暦や米寿などはよく耳にした。しかし、白寿、紀寿、茶寿、皇寿、大還暦、天寿という語彙は聞き覚えがなかった。昨今、社会保障費の増大が若者の将来を危うくすると叫ばれる。早起きは三文の徳と昔から言われているが、長生きには、いったい何文の得があるのだろうか。そう問いたくもなる。

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