野村は王・長嶋と比べれば、今も昔も月見草
プロ野球・南海ホークスというチーム名前など知らない人も多いだろう。1988年まで存続したチームだ。その後、ダイエー・ホークス、そして、現在のソフトバンク・ホークスとなった。愚生が小さい頃は、パ・リーグは不人気球団の陳列棚のようだった。それでも、鉄腕稲尾のいた西鉄ライオンズ(現、西武)は、九州福岡がフランチャイズだったため、多少のファンはいた。南海・近鉄・阪急など、半分は阪神地区がフランチャイズだ。しかし、その阪神地区のほとんどの野球ファンは、セ・リーグの阪神タイガースだ。東京にあった残り2チームの東映・大毎も、巨人とフランチャイズが重なり、ひいきにするファンなどいるのかというありさまだった。そういう訳で、野村克也が日本で初めて三冠王になったことなど知る人は少ない。今は、偉そうに喝という張本も東映に在籍していた。終盤にドラックバンドなどを多用して、こそくな手段で首位打者を勝ち取ったりしていた。昔のことは誰も知らないと思い、最近は偉そうなことをいっている。しかし、昔を知る愚生にとっては、在日朝鮮人の張本(浪商出身)は、自分本位な捻くれた人物で、とてもスポーツマンと呼べる輩ではなかった。台湾出身の王貞治さんと比べ、張本は月と鼈くらい差がある嫌らわれ者だった。そういう侘しいパ・リーグだったが、たぶん大学生くらいまでだったと思うが南海ホークスを応援した。その灰色の南海の主力といえば、キャッチャーの野村克也だった。ユニホームを着ていた時代は、これほど愚痴の多い人物だと思わなかった。知っていたなら、応援などしなかったかもしれない。その野村克也は、1990年に故郷の京都府・旧網野町(現京丹後市)に三冠王やリーグMVPなどの多くの記念品約80点を寄贈した。町は「野村克也ギャラリー(仮称)」を併設した建物の建設を計画したが、市は予算がないとのことで計画は頓挫し、今は段ボール箱に詰められたまま倉庫に眠っている。選手時代も不人気だったが、引退してからも、王・長嶋と比べれば月見草だ。野村は彼らしく「オレの記念品は邪魔なんか」「倉庫にしまうくらいなら、地元の知り合いに預けてほしい」とぼやいている。大阪難波にある南海ホークス記念館にでも寄贈すれば、多少は日の目を見ただろう。しかし、南海を叩きだされた怨念から、それだけはしたくなかったようだ。一方、南海ホークスの後継となったソフトバンク・ホークスのフランチャイズ球場(ヤフオク!ドーム)内には、「王貞治ベースボールミュージアム」が併設され、数え切れない程のトロフィーや表彰状、貴重な映像資料が常設で展示されている。
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