親思うこころにまさる親ごころ
歳を取ると新聞やスマホを読むにも、遠近両用の眼鏡を外すことが多い。何のための老眼鏡かと言いたい。一方、見えなくてもよいものまで見えてくる。それは、年寄りの心理というか、普段気づかなかった相手の潜在的に持っていた価値観だ。この場合、向こうに悪意がないだけ、よけいにがっかりさせられる。そして、今まで自分の取ってきた気づかいが空しくなる。解りづらい表現で書き綴ったが、自分の親兄弟に対しての率直な心境だ。相手の考え方が変わったわけではないから、良し悪しではない。愚生の認識が誤っていたということだ。親だから、兄弟だからと、ある一線に対しても、好意的な見方をして相手の真意を見誤っていた。戦前教育を受けた母だったが、一人娘で小さい頃から我慢するということがなく育った。だから、長幼の序などという古いしきたりなど気にせずに、遠慮なくはっきり物を言った。死んだ後の親父のことでも、感情の抑制が効かないのか罵詈雑言を他人の前で平気で吐いた。ただ、先祖や血筋ということに関してだけは、戦前教育が焼き付いているようだ。そのせいか、愚痴は言うくせに、長男の酷い仕打ちにも忍耐強く庇っていた。そういう母心を知ると、嫉妬はなく純粋に可哀想な気がした。しかし、いくら母の頼みだと言っても、愚生の子々孫々にまで及ぶ事は断るしかない。たとえ母にとって、唯一存在感を示すことであっても。そう考えると、死刑を前にして吉田松陰が故郷の両親に送った歌「親思うこころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん」。引用違いかもしれないが、愚生が母を思う気持ち以上に、愚生の子に対する気持ちは強いようだ。母が愚兄をより強く思うのは母の自由。だからと言って、それで愚生が不利益を被ることは容認しがたい。自由主義経済の自己責任は、自分自身で果たすべきだ。逆の立場だったら、どうするかと考えれば分かりそうなものだ。愚生は自分の子に対するほどの慈愛は、母には持っていないようだ。自己嫌悪というまでには至らないが、いままでの事が何か空しい気がしてならない。
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