田舎の旧盆とはいっそう疎遠になった。
お盆というと、生まれ故郷の北陸の田舎にいた時までだ。迎え盆や送り盆に、御招霊(おしょうらい)といった行事があった。愚生の地域では、松明を焚いていた。お盆に先祖の霊があの世から帰ってくるときに、暗いと困るので明かりを持って迎えるという習わしだ。当然、迎え火があれば、再びあの世に帰る際の送り火もあった。ただし、迎え火は多くの人が参加したが、送り火となると愚生のような暇な子供たちだけだった。先祖の霊など今では信じない。しかし、当時は曾祖母の話を半信半疑で聞いていた。曾祖母は明治生まれの人だった。しかし、当時の日本は今と違い、朝鮮・満州・上海居留地・遼東半島なども国土一部だった。そのせいか、曾祖母は英語を習った後に上海に旅行に行ったことがある。愚生の親父も、旧制中学を卒業後、継母と折り合いが悪かったせいか、学費がかからない旅順工大の専門学校に進学した。「青年よ、大陸へ」という、政府の移民政策に煽られて大陸に行ったのだろうか。そのせいで、満州語と中国語ができたので、戦時中は軍の通訳をしていて伍長で終戦を迎えた。終戦後、親父が帰郷した時には、富山市内一面が焼け野原だった。一日中、どこをどう歩いたかも覚えていないと言っていた。戦後生まれの愚生などと違って、青春時代は死と向かい合っていたのだろう。瀬戸内寂聴などが偉そうに戦争体験を語る姿には、いったい彼女は戦時中どこにいたのかと言いたい。人殺しをした兵士は、戦争体験など語る人は少ない。親父から、愚生も戦争中の体験など聞いたことはなかった。思い出したくもないのだろう。8月15日の終戦日は暑い日だったとお袋は言っていた。そのお盆も、大学時代を遊学したせいで、高校を卒業してからはたまに帰る程度になった。そして、就職先はF社の川崎工場だった。そのせいで、新盆を祭る東京に住んだせいで、田舎の旧盆とはいっそう疎遠になった。本籍を東京に移してからは、さらに田舎が遠くなった気もする。
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