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2018年7月 2日 (月)

田園都市線沿線の憧れの「田園都市」

Tokyu20140602 日経新聞に「老いる田園都市東急、100年目のひずみ」という記事があった。田園都市線と聞くと、なにか郷愁が湧く。愚生が大学卒業後に、初めて勤務したF社の寮は田園都市線の「市ヶ尾駅」にあった。当時の横浜市緑区(現在は青葉区)は、都会と言うよりド田舎という表現があっていた。高級住宅街とは名ばかりだった。休日に散髪や食事をするにも、「溝の口駅」(川崎市)にまで出た。酒を飲みに行くと言えば、自由が丘や渋谷にまで行った。地下鉄半蔵門線が開通していなかったため、「溝の口駅」から渋谷に行くにも、「自由が丘駅」で東横線に乗り換えなければならなかった。その後、田園都市線沿線の憧れの「田園都市」は、高級住宅街として発展してきた。しかし、今はシートで覆われた空き地や、好天なのに雨戸を閉め切った家が目立つという。巨人の桑田真澄が破産前に建てた家は、人気の高かった「たまプラーザ駅」(横浜市)から徒歩13分だった。そこは、美しが丘という緑豊かな宅地が広がる。高級感を際立たせている街路樹や歩行者専用道路もある。「クルドサック」という円形にUターンし元の道に戻る仕掛けもある。車が通り抜ける騒音や事故の危険から住民を守っている。新聞によれば、60歳代のある男性家族が、数十坪の宅地を売りに出したところ、買い手がなかなかつかず、売却までに半年かかった。愚生は、田園都市沿線に10年以上も住んだが、崖を削って造成したため、坂道が多く自転車に乗れない地域だった。アップダウンが多く、高齢者には向かない。開発分譲からから50年経て、そこの住民も同様に年を重ねた。年老いて、坂や階段が多く駅から自宅まで一気に歩けないため、この地を離れる人が目立つという。1区画あたりの土地は100坪とすれば、売値は1億円を下らない。渋沢栄一が戦前、高級住宅街の田園調布を開発分譲した。五島昇も戦後、理想の住宅街を実現するために、美しが丘を含む多摩田園都市を開発した。当時はあこがれだった住宅地も、いまはすっかり評価が変わったのだろうか。土地バブルの1990年前後は、一坪600万円で取引されていたという。今の状況からは、バブル時代を想像することはできない。渋谷から直接電車が乗り入れる「たまプラーザ駅」はまだよい。次の駅の「あざみ野駅」には横浜市営地下が乗り入れている。その駅は広大な港北ニュータウンの玄関駅となっている。サラリーマンは、地下鉄から田園都市線に乗り換えて都心に向かう。ところが、その港北ニュータウンは、少子高齢化のせいか、空き地や空き家が目立つ。長時間の乗車は、高齢者にとっては通勤地獄だ。愚生が二十代でも、田園都市線での通勤は混雑していて大変だった。そう考えれば、職住接近を選ぶ、最近の若者には人気がないのだろう。そうはいっても、土地バブル期に住宅ローンを組んだ愚生の年代は、耐えに耐え忍びに忍んで借金を返済するために働いてきた。今やっと払い終わったと思う頃は、棺桶に片足を突っ込んでいた。これが人生なのだろうが。

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