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2018年10月22日 (月)

「南海カラー」のくすんだ緑色

Sutanka ホークス(現ソフトバンク)で投手として活躍した「ジョー・スタンカ」が、米テキサス州の自宅で死去した。87歳だ。熱烈な南海ファンだった愚生は、今でもスタンカ-野村克也のバッテリーを覚えている。1964年には26勝を挙げ、阪神との日本シリーズでは3完封を挙げ、MVPに輝いた。身長196センチの大男で、通算7年で100勝72敗の成績を残した。当時のホークスといえば、現在はソフトバンク・ホークスとしてパシフィック・リーグを代表する超人気球団だが、かつては大阪に本拠地を構える南海という球団だった。晩年の南海ホークスは、「弱小の貧乏球団」という印象だ。他の球団の戦力外になった選手を寄せ集めて、野村再生工場と呼ばれた野村監督の下のチームだった。現在のソフトバンク・ホークスと真逆だが、愚生が応援し始めた昭和30年代はそれほど酷くはなかったのだが・・。南海と言えば有名な事件がある。1957年(昭和32年)のオフ、南海ホークスは二人の超大物新人の獲得に動いた。その二人とは、東京六大学のスーパースター、立教大学の長嶋茂雄と杉浦忠だ。当時の南海ホークスには、立大出身の大沢昌芳(後に大沢親分と呼ばれた)がいて、二人の後輩を熱心に南海入団を誘っていた。東京六大学の本塁打記録を持つ長嶋、絶対的エースだった杉浦を同時に獲得する腹積もりだった。先に勧誘されたのは長嶋の方で、長嶋は杉浦に、「一緒に南海へ行こうよ。南海の本拠地は大阪のド真中の難波にある大阪球場で、とても都会的なチームだ」と誘ったという。しかし、長嶋の親が遠い関西に息子をやるのに反対で、巨人入団を強く勧めたため、長嶋は土壇場で翻意した。長嶋の南海入団が反故となり、心配した当時の鶴岡監督が杉浦に「お前も巨人に行くのか?」と聞いたところ、杉浦は、「僕が約束を破るような人間だと思いますか?」と答えたという。ドラフト制度のない時代ならではのエピソードだ。こういった長嶋茂雄に不都合私事は、今でも新聞やニュースで取り上げない。ドラフト制度になってからも、巨人と言えば、エガワルと揶揄された「江川の空白の一日」、投げる不動産の「桑田真澄の早大偽装受験」と黒い噂ばかりだ。その杉浦は、1959年(昭和34年)、エースとなり38勝という大活躍により、南海ホークスはパ・リーグを制覇した。そして、日本シリーズではセ・リーグの覇者である巨人と対戦した。日本シリーズでは杉浦が4連投で4連勝、4勝0敗のストレートで憎い巨人を圧倒した。今から思えば、愚生が応援を始めた頃の南海ホークスは、黄金期の末期だった。ところで、水島新司の漫画「あぶさん」のモデルは、弱くなってからの南海ホークスだ。あるカップルが、相談をしようと店を探していた。だが、大阪ミナミの街はどの店も満員で、落ち着いて話せる場所がない。そこで男の方が、大阪球場なら誰もいないだろう、と。思惑通り、大阪球場のスタンドは閑散としていた。人で溢れている大阪ミナミの繁華街。唯一の近くで空いているのは南海ホークスの本拠地。大阪球場だと言われるくらい不人気球団に成り下がっていた。愚生が北陸の田舎で、野球帽子を作るにも、店員に南海ロゴマークを詳しく説明して作っても貰った。店員から「巨人のマークに似ているね」と言われたが、いったいどこが似ているのだと腹の中で思った。巨人か、阪神ファンになっていれば、こんな苦労はしなかったのにと後悔した。その「あぶさん」が連載を開始した1973年(昭和48年)に、南海ホークスはパ・リーグ制覇を成し遂げた。当時、大学生だった愚生は、近くの「平和」食堂で、かつ丼を食いながら、阪急とのプレーオフをラジオ放送で応援した。翌日、スポーツ紙をたくさん買い込んだ記憶がある。貧乏球団の優勝は、今後二度とないと思ったからだ。そしてそれが、南海ホークスとして最後のリーグ優勝だった。日本シリーズでは実力通り、巨人に1勝-4敗で敗れた。その時のバッテリーは、阪神で「ベンチがアホやから野球がでけへん」と暴言を吐いて辞めた江本孟紀と野村克也だった。愚生も1977年(昭和52年)のオフに、選手兼監督だった野村克也が解任されると、それ以降は徐々に南海から離れていった。そして、球団結成から50年目を迎えた1998年(昭和63年)の秋に、南海ホークスはダイエーに売却された。その後は、ホークスの好で細々と応援している。昨日は、ホークスvsライオズのクライマックスシリーズだった。両方とも好きな球団だが、熱烈な西武ファンの吉永小百合が赤色に染まったせいで、どちらかと言えば今はホークスのほうが好きだ。一方、球団が福岡に移動した大阪球場は、その後しばらく住宅展示場となり、現在は解体されて大型商業施設の「なんばパークス」に生まれ変わった。「なんばパークス」には南海ホークスのギャラリーがあり、かつての大阪球場があった場所には、ピッチャー・マウンドとホームプレートが模られている。しかし、当時、愛人だったサッチー(後の夫人)の公私混同の暴挙で、球団を追われた野村克也のものは何一つない。寂しい限りだ。野村克也は、くすんだ緑色が大嫌いだという。しかし、南海ファンだった愚生は真逆だ。愚生は、Tシャツも、チノパンもダウンコートもすべて「南海カラー」のくすんだ緑色だ。今でも、南海との確執は、愚痴っぽい野村克也が悪いと思う。

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