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2019年5月19日 (日)

参詣道としての大辺路、中辺路、小辺路

250pxemperor_goshirakawa2 昨日、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された熊野古道と高野山への旅行から帰った。この世界遺産は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とするものだ。その中に、熊野三山の一つの熊野本宮大社などがある。そして、その霊場へと結ばれる、参詣道として、大辺路、中辺路、小辺路、大峰奥駈道、伊勢路、高野山町石道が整備されていった。この世界遺産は、日本で道として初めて登録された。文化 遺産のカテゴリーのなかでも「文化的景観」に初めて選ばれた。この熊野詣をした後白河上皇(1127~1192)は、歴代上皇のなかでも最多の34回も行った熱心な信者だった。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられていたようだ。その後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代もの天皇時代に院政を図り、武家勢力に対抗しつづけた。後白河上皇は、その権謀術策により武士から恐れられたという。しかし、熊野詣を繰り返す姿は、ただただ極楽往生を望むという姿もあった。武家勢力と相対峙するより、ほんとうは今様を徹夜で歌いあかしたり、今様の名手の女芸人に歌を習ったりすることのほうが性に合っていたといわれる。この熊野本宮大社へ行く大辺路、中辺路、小辺路などのルートは、修行者が霊場に行く道として整備された。その後、後白河上皇の抵抗空しく、最後には源頼朝に地頭職を握られ院政の財政的な基盤を切り崩された。そして、源頼朝の諸国守護権が公式に認められ武士の台頭を許した。こういう話を聞くと、上皇は鬱蒼とした山の中の霊場に居場所を求めたのだろうか。そして、明治維新前は金剛峯寺と呼ばれた「高野山」に、弘法大師が修禅の道場を求めた。ただ、高野山の「奥の院」には、御廟橋の先に灯籠堂、その裏に空海の御廟がある。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並んでいた。真言宗」だけではなく、浄土真宗やキリスト教、イスラム教など宗派にかかわらずに墓が建立されている。これが弘法大師の教えなのだろう。その総数は20万基以上あると言われている。今回の旅行は、得るものが多かった。日本人なら、無宗教であっても一度は参拝すべき場所だとおもっいた。

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