感謝する気持を持つことは重要
カトリック・キリスト教会では、従者と声をそろえて礼拝参加者は「神に感謝」という。別段、イエス・キリストや神仏でなくても、物事に感謝する気持ちがなければ、心が満ち足りることはない。そういう意味では、感謝する気持を常日頃から持つことは、人が生きるために重要なことだ。半島の国では、戦前に売春婦をしていた婆さんたちが、慰安婦と称して金をせがむ。親に売春小屋に売られたのは気の毒だとは思う。しかし、恨の精神を関係ないところに求めて、金を無心することは恥ずかしくないのか。いくばくかの金を繰り返し要求して、生まれてもいない時代の子孫に反省が足らないと繰り返すことに恥らいはないのか。一方、愚生の知り合いの女性は、いつも大げさに感じるほど感謝の言葉を述べる。教会員だから教義に忠実なのかもしれない。また、過去と比較して、今の境地を述べているのかもしれない。いずれにしても、愚生もその謙虚さを見習わなければならないと感心する。反対に、口癖なのかもしれないが、年がら年中、不快そうに愚痴をこぼす人がいる。いつも自分が不利益を被むっていると思うのだろうか。人様に比べれば、十分恵まれていると見受けても不満らしい。愚生の親類にも、愚痴をいつも溢す人がいる。愚痴を言ったところで、問題が解決することはない。自らリスクを負って、相手と対峙しなければならない。しかし、そういう勇気は持ち合わせていないので自身の不運を嘆く。こういう人は、一生不愉快な気持ちで生きてい行くのだろう。同じ人生の長さを生きるのなら、楽しく生きたいものだ。ところで、愚生は口を開いて言葉を発するなら、相手を褒めた方が得だと思っていた。ずいぶん昔になるが、大学に入学した時のことだ。大学は、方々の地域の高校から入学してくる。中には、同世代の男性と口を効くことがなかった環境もあるだろう。相手の機嫌を取ろうと、無意識でお世辞を言ったところ、そんなつもりで言ったわけではないと感じることが多かった。心にもない口先だけの誉め言葉なのに、本気で受け取る人もいた。頭を冷やして、鏡でも眺めながら自分を見つめてみろと言いたくなった。豚もおだてりゃ木に登るといっても、相手がその気になって横柄な態度に出られると閉口する。半世紀経て彼女たちは、今どうしているのか。脳裏を辿れば、青臭い記憶が蘇る。
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