日本は高齢者社会に突入したことを痛感
昨日、暇なので2020年元旦の年賀状を書いていた。年賀状を書くというより、パソコンソフトで作っていた。研究室で世話になった先生には、卒業してから40年以上経ても年賀状を出している。返事が来るから、先生は今も達者なのだろう。愚生自身も、高齢者という範疇に分類されるようになってしまった。若い頃は、ずいぶん年配だと思っていた先生や芸能人なども、愚生とあまり年回りが違わない。特に、高卒や中卒でデビューした有名歌手などは、今となっては年齢的には同僚に近い。そう思いながら、愚生の近所を眺めると、今年になってから多くの人が去っていった。愚生がこの地に移り住んだのは、いまから約30年前だ。土地バブルに続くマンションバブルの時代だった。マンションを売り抜けた含み益と借金のレバレッジで住宅を何とか取得した。その後、長期にわたって土地は下がったが、含み益分がバッファーとなって、損失を軽減した。愚生が移ったこの地は、昭和40年前後に分譲され地域だった。当時の住民年齢は、50歳代後半から60歳代半ばだった人が多かった。その多くの人は、30年という歳を重ねたから、今は80歳代後半から90歳代半ばだ。そのため、毎月のように地域では葬式がある。85歳ぐらいだと思っていた愚生の隣人は、実は95歳だった。つい最近まで、元気だったように思っていたのでショックだった。愚生宅の両隣や前後の住宅にも、80歳代半ば90歳代の人が住む。今年中に、もう一人二人のご不幸があっても不思議ではない。そう考えると、つくづく日本は高齢者社会に突入したことを痛感させられる。少子高齢化で消費購買力が落ちる中、徴税することは容易でない。地方に行けば、固定資産税くらいしか税収はないのが実情だ。これでは、さらに可処分所得が落ち込むという負のスパイラルだ。昨今、都内の土地でも売るのは容易でない。こう考えると、現金の有難みと「不動産の不可逆的な欠点」が目につく。やはり、デフレは今も続いているというのが実感だろう。実需がなければ、どんなに利便性を説いても不動産とて値が付かない。
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