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2020年2月12日 (水)

野村監督の死は愚生には大きな衝撃

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現役時代は南海ホークス(現ソフトバンク)で活躍し、その後、ヤクルト、楽天などの監督を務めた野村克也氏が84歳で亡くなった。 南海にテスト生として捕手で入団し、戦後初の三冠王に輝いた。昭和45年からは南海の選手兼監督となり、48年に金欠弱小チームの南海を最後の優勝へと導いた。愚生は、小さい頃からの南海ファンだったせいで、背番号19番の野村はお気に入りの選手だった。愚生の育った北陸のT県は、正力松太郎の生まれた地だった。巨人の親会社である読売新聞とは、縁の深い地域だった。また、王貞治ソフトバンク会長のお母さんが、T県の出身だった縁もある。そういうわけで、巨人一色の地域だった。ただ、中部地方という事もあり中日ファンも少しはいた。しかし、愚生のような南海ホークスファンなど皆無だった。南海に限らず、パ・リーグのチーム名など知らない人がほとんどだった。日本シリーズ以外で、民放テレビで南海の試合が放映されることはなかった。希に放映されるのは日本シリーズに出場した時くらいだった。ただ、アナウンサーも解説者も巨人贔屓の放送のため腹立たしい思いで見ていた。そういう時代だから、パ・リーグの試合などは、草野球のように扱われていた。テレビ中継があっても観客はほとんどいなかった。「ノムさん」の愛称で親しまれた野村克也は、そういう中で毎日試合をしていた。晩年、南海ホークスは、親会社の南海電鉄の経営が苦しかったせいで、不人気チームを支援するお金がなかった。そのせいで、戦力外などを経験した選手を集めて、1軍の戦力としていた。そのせいで、野村監督は終わった選手を甦らせる手腕を評価され、「野村再生工場」と呼ばれた。江夏や江本、山崎、青野など数え上げたらきりがない。ただ、愚生は選手生命を終えた晩年の野村は好きではなかった。インタビューなどで愚痴をつぶやく「ボヤキ」が多すぎたからだ。喋らない時代はよかったが、あまり潔い性格ではなかった。そういうわけで、愚生は南海を首になってから、野村克也を応援することはなかった。どうも、南海ホークスファンではあったが、野村ファンではなかった気がする。しかし、小学生のころから大学時代まで、一生懸命に弱小チームを応援した記憶がある。そして、昭和48年の西本監督とのプレーオフを勝ち抜いて、パ・リーグ優勝した野村監督は誇らしかった。ポンコツ選手ばかりを集めて、優勝したのは「アッパレ」としか言いようがない。その優勝時の投手は、今はタレント家業の江本孟紀だった。彼は阪神に移った後「監督があほだから辞める」とシーズン途中に阪神を退団したのは有名だ。いずれにしても、思春期に影響を及ぼした野村監督の死は、愚生には大きな衝撃だった。愚生も、いつまで生きられるのかと考えてしまった。

 

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