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2020年11月 4日 (水)

愛するものを見送った後に聞く歌

昨日、15年近く飼っていたロシアンブルーが逝った。少し前から苦しそうにしていたので、可愛そうなため早く向側に逝って欲しいと願っていた。しかし、実際に亡くなってしまうと虚脱感というか、悲しくてやりきれない。骨壺を前に、香を焚いて気分を静めるが気が滅入る。親父が死んだときは、それほど悲しいとは思わなかったのが不思議だ。当時は、子育てと会社人間だった。そのためか、身内の悲報に感じ入る余裕さえなかったのだろうか。今は子供たちが連れ合いを見つけて家を去った後は、老夫婦と老猫の三人暮らしだった。そのため存在感の大きい老猫がいなくなると、人口密度が大きく減った気がする。老猫は夕飯の一時間前からテーブルに陣取っていた。そしてカミさんが持ってくる自分用の魚身が遅いと怒っていた。子供たちが去った後は、自分が一番だと悟っている老猫が我儘に振舞っていても可愛かった。老猫が新たに社会生活をするわけでもないから唯々可愛いがっていた。老猫の遺品を見ると思いだすので、不要になったキャツタワーやトイレキットなどは捨てた。消耗品というか、猫砂やヒルズの餌なども捨てようかと思った。しかし、手付かずの品なのでペイペイフリマに送料程度の価格で出品した。これで、もう決して猫は飼わないという決意を揺るがせないためにもすべて無くしたかった。前に飼っていたラブラドルレトリバーが亡くなった時は、まだ50過ぎだったため流石にそういう気にはならなかった。しかし、今回は自分の身の末も怪しくなってきたので、寂し行けれど身軽にすべきだと思った。昨日から「別れの磯千鳥」という歌を何回も効いている。母が好きでよく口ずさんでいた。愚生は、いい名づけだった母の彼氏が戦死したからだろうかと勘繰っていた。戦死しなければ、愚生は存在しないのだから微妙な立場ではあるが。しかし、愛するものを見送った後に聞く歌としては最適だ。

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