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2020年12月 3日 (木)

故郷納税だと思って、しこたま飲んだ

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昨日は、生まれ故郷の富山まで日帰りで行ってきた。目的は義母のお見舞いと、墓に眠る親父への義理からだ。秋川雅史の「千の風に乗って」という歌にあるように、「そこに私はいません。眠ってなんかいません。」というのが事実だろう。愚生はカトリック信徒でもあるため、なおさら「南無阿弥陀仏(わたくしは、はかりしれない光明、はかりしれない寿命の阿弥陀仏に帰依いたします)」と唱える親鸞聖人の浄土真宗とは縁がない。ただ、小さい時から曾祖母は、毎日、経を読んでいたので耳の中に残っている。曾祖母は、明治時代の人だったので、柔和な中にも厳しいものがあった。愚生には一度もその厳しい面を見せたことはなかったが、婿養子の親父は長幼の序を守っていた。若い頃は闊達だった義母も、頭がぼけてきたらしく寂しそうにしていた。武漢ウイルスの感染拡大で、窓越しの面会だった。それも東京から遥々富山まで行って、10分間の面会では悲しいものがある。老人は時間を持て余しているため残酷な気がした。二年ぶりの富山で観た立山連峰の雪景色は、素晴らしいとしかいいようがない景色だった。少年時代に、朝日に照らされる立山連峰を見ながら、新雪を踏んで学校に行ったことが懐かしい。あのころは何も考えずに、親の言うことは、すべて真実だと疑ったことはなかった。そういう愚生も、今は高齢者と呼ばれる部類に入ってしまった。生きることしか考えなかった時代も過ぎ去り、晩年をどう暮らすかということぐらいしか頭に浮かばない。両親の生きざまを、他山の石としないことだろう。彼らが頭から離れないインフレーションや戦後の円の暴落などを愚生は経験していない。だから、軽々しい批判はしたくない。しかし、どう考えても自己鍛錬の不足や身の丈に合わない生活が晩年の没落を招いたことは否めない。そう思うと、両親から反面教師として学ぶべきことは多い。東京への帰りの電車待ち時間がずいぶんと余った。そこで、立山連峰が見渡せるレストランから、故郷納税だと思って、しこたま飲んだ酒が頭に残って気分がすぐれない。墓しか残ってない故郷に、あと何回、帰る機会があるだろうか。

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