過去の名勝負(大山vs中原)
来月から永瀬王座vs豊島九段の将棋王座戦(日本経済新聞社主催)が始まる。王座戦の70期を記念して、過去の名勝負を紹介してあった。取り上げられているのは1974年10月17日に指された第22期の三番勝負第3局▲中原誠王座対△大山康晴十段戦だ。愚生が将棋を覚えた頃は、大山十五世名人の全盛期だった。そして、今はプロ棋士の中で最盛期を過ぎた振り飛車も全盛期だった。愚生も「大山の四間飛車」や「石田流三間軒飛車」、「松田流ツノ銀中飛車」、「伊藤果の風車(中飛車)」など多くの戦法書を買って定跡を覚えた記憶がある。しかし、定跡で形を覚えても実戦では通用しないことが多く、強くなったという気はしなかった。愚生自身は、形が美しい「ツノ銀中飛車戦法」が好きだったが、玉の守りが薄いため指しこなすのは容易ではなかった。そのため、三間飛車戦法で玉をしっかり固める穴熊囲いを実戦で多く指した。記事では、当時、新進気鋭の中原誠名誉王座(十六世名人、74歳)が6連覇を達成した一局が載っていた。大山は51歳、中原が27歳の時だ。一勝一敗後の残り三番勝負には、大山の棋戦優勝100回目(タイトル戦含む)がかかっていた。この年の夏、大山と中原はそろって日本将棋連盟の副会長に就任していた。この日も早朝から打ち合わせがあり、将棋会館の理事室から2人で1台のタクシーに乗って対局場に向かったという。當に、呉越同舟だ。この年は名人戦(中原防衛)や十段戦(竜王戦の前身、大山奪取)でも戦っている。そして、棋界を席巻した大山の振り飛車に、中原が居飛車で対抗した。愚生は振り飛車党だったため、大山を応援していた。大山の中飛車に中原が玉頭位取りという戦法で戦った。当時は居飛車穴熊戦法が未だ世に出ていないため、居飛車側が厚みを盛り上げての玉頭戦は、素人には難解な戦法だった。AIは振り飛車戦法を評価しないため、大山が中飛車に振った瞬間に評価値(AIによる形勢判断を示す値)が中原有利となった。大山が中飛車から向かい飛車に振り直して2筋を逆襲という戦いになった。その後〝自然流〟と称された中原が金銀を押上げて、リードを築き手厚く攻めて勝ちきった。この中原十六世名人の出現で、プロの間では振り飛車党が減った。藤井聡太竜王など一度も振り飛車を指したことはないという。ただ、大山が広めた振り飛車戦法はアマ棋士には分かりやすいため、今でも興生を誇っている。ところで、多数持っていた将棋本も引っ越し前に、すべてブックオフで売払った。今あるのは実力が伴わない〇段免状だけだ。雪深い北陸で幼少期を過ごしたため、冬は将棋を指すくらいしかご楽はなかったのが縁だ。
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