自身に対する厳しい判断基準
故事成語に「覆水盆に返らず」という言葉がある。意味は、一度離縁した夫婦の仲は、元には戻らないことのたとえだ。つまり、一度してしまったことは取り返しがつかないという意味で使われる。この由来は、紀元前十一世紀ごろ、周王朝の創建に功績のあった呂尚(太公望)のエピソードから生まれたことばだといわれる。呂尚がまだ貧しかったころ、妻は彼を見限って出て行ってしまった。ところが、呂尚が周の国で高い地位に就いたとたん、彼女は戻ってきて復縁を求める。すると、呂尚は水の入った容器を傾けて中の水を地面にこぼし、「覆水は定めて収め難がたし」と言って、復縁の意志がないことを示した。愚生自身も、長い友人付き合いの末に、袂を断った経験がある。若い頃からの付き合いだったので、よく本人自身のことが見えなかったからかもしれない。若い頃に持っていた価値観や倫理観は、晩年になって変化することがある。どんな人でも社会に出れば、否応なしにその環境から影響を受ける。「会社の常識、他社の非常識」という格言がある。自分がいる環境の価値観や倫理観が、世の中と大きくずれていることがあるという意味だ。そのせいだろうか、お互いに社会生活を送った後、終活をする歳になってから大きな考え方の違いに気づくことがある。愚兄などは、自分にとって得か損かが判断基準の人だった。多くの人にとって、この価値観は当てはまるだろう。例えばウクライナ戦争でも、ロシア人は自分に不利益がなければ興味はなかった。しかし、自分が徴兵されると知った途端に、国外に出国し戦争反対を叫ぶ。何が欠けているかと言えば、損得勘定の前に自分に対する美学がないからだろう。ここでは何であっても、自分はこうしなければという自身に対する厳しい判断基準がないことだ。聖書には、人は土から生まれて土に帰るとある。古からこの価値観はあったのだろう。近代科学では、世界が素粒子レベルの振動の集合体だといわれる。そうであれば、個々の振動子は規則正しく振れなければ存在しえない。それには、善行を積むしかないと思う今日この頃だ。
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