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2022年10月20日 (木)

人生は走馬灯のようなもの

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一昨日は、遠方にいる義母の見舞いに行ってきた。若い頃は、ずいぶんと世話好きな方だった。老いてからは痴呆が入ったため、出入りが自由でない介護施設に入居していた。その後、内臓が悪くなり終末医療の病院に入院している。食事を口から取れないため、点滴を受けてストレッチャーに横たわる姿が痛々しい。いつ向こう側に行ってもおかしくないため、施設に入院早々に見舞いに行った。意識はしっかりしているため、愚生のことははっきりと認識できるようだった。髪染めしてないため、白髪の老人と言う感じで普段の見なれた姿より老け込んでいた。明日は我が身だと思いながら、義母に挨拶をしてきた。もう一度くらいは、お見舞いの機会はあるだろうと思っているが、最低の義務は果たし気がした。その後、愚生の本家筋の墓に行って、両親の墓参りをした。「千の風になって」の歌詞のように、その墓にいるわけではないだろう。しかし、何か両親に面会してきた気がした。母は、愚生が小学校六年生くらいの時に、人生は走馬灯のようなものだと語ったことを思い出す。あっという間に、今になってしまったと愚生にその時の思いを語っていた。母とは歳の差は26しか違わないから、当時40歳くらいだった。40歳と言えば、愚生の長男と同じ歳だ。今から思えば、ずいぶんと若いのに悟った口を利いたものだ。当時の母は、それから彼女が57年も生きるとは思っていなかっただろう。晩年、施設に入った時は死ぬのを待っているようなものだと愚痴った。戦争体験のある母に、愚生は生きたくても短命で終わった人は多いと諭した。長生きをするから、周りに知らない人ばかりで寂しい気になるのだと慰めた。母が溺愛した愚兄が近所にいるにもかかわらず、顔を見せないことが母は辛かったのだろう。社会性の持ち合わせない愚兄には、ほとほと呆れた。一番自分を庇ってくれた母に反感を持つ愚兄の考えは理解しがたい。ところで、義母もそう長くない先に御別れとなるだろう。最近は、老いることが寂しい気がする。新幹線に乗るため東京駅に行く途中、電車の優先席前で立っていると、老夫人が席を譲ってくれた。帰りの電車でも同様の機会があった。席を譲ってくれた老婦人の方が愚生よりは年上だと思った。しかし、リップサービスで愚生よりお若そうなので申し訳ありませんとお礼を言った。内心、愚生の方が若いと確信していたが、ご好意に報いるため嘘をついた。

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