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2022年10月15日 (土)

敬意を示してくれたのは名刺

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歳を重ねるごとに、時間が早く進む気がする。高齢者と呼ばれる範疇の多くは、愚生と同じ気持ちではないだろうか。自営業だった人には、はっきりとした区切はないかもしれないが、サラリーマンだと勤め先がなくなれば行く場所はない。使われる身は損益に責任がない分、選択の自由もない。愚生自身は五十五歳で早期退職をした後、自由人として何とか生き延びてきた。退職直後は、平日の朝にサラリーマン風の人たちが通勤する姿が羨ましかった。自由業というと聞こえが良いが、自分で作りださなければ仕事も利益もない。勤め人時代より遥かに真剣に考えたような気がする。ただ、人間関係に悩まされることもないため、精神的には楽な面もある。愚生が勤め人をしていた頃、退職してから事業を立ち上げて独立した人たちを知っている。多くの人は事業に失敗していた。理由はそれぞれだが、大企業に勤務していると忘れがちなことが多い。例えば、取引をするにも信用がなければ相手にされない。また、会社との取引口座がなければ売買もできない。会社を飛び出してしまえば、過去の信用が自分ではなく名刺だったことを痛感する。悲しいことに、相手が敬意を示してくれたのは名刺に書いてある会社であって本人でないことに気づく。多くの人は失敗した後、その個人の能力は認められていたため、下請けとして同じ職場に勤務したひとが多かった。それなら辞めずに我慢していればと言いたいが、その時はできなかったのだろう。死活問題を抱えて、初めて苦渋の選択をしたのだろう。そういう彼らを横目にしてきたため、固定費の発生することはしないことにした。そして、ホワイトカラーの仕事に限定するが、職域の範囲を決めずにチャレンジした。七転び八起きしながら高齢者と呼ばれる歳まで、爪に火を点すような生活だが何とか暮らすことができた。晩年、惨めな姿で人に使われるようなことはなかったことが幸だ。そう考えると、自分の人生は、若い頃に考えていたよりかなり良かったと褒めてやりたい。

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