向こう側に持っていけるものは体験
昨日、愚生は年賀状を作っていた。今年、母が逝ったこともあって学友くらいにしか出す宛てがなかった。愚生自身は、カトリックだから喪など気にすることはないが、母の手前、親戚や田舎の知り合いには出さないつもりだ。学友には、庭の手入れなどが億劫になったことでマンション生活を始めたことや、いくら気を若く保っていても、老いには勝てないとことなどを綴った。思い起こせば、大学に入学したのは、いまから約半世紀も前になる。当時、郷里から出てきて誰一人知る人はいなかった。しかし、その地で多くの学友をつくった。気の合わない人もいたが、当時は贅沢を言っていられない状況だった。最近、久しぶりに会っても三つ子の魂百までという感じの学友もいる。人生で研鑽や修練と言うことに無縁だったようだ。サラリーマン生活では、彼はずいぶんと苦労したことだろうと心の中で同情した。しかし、いずれ棺桶にはいるのだから、どうでも良いことなのかもしれない。古希を迎えて、こうして学友に年賀状を書くことなど、当時は想像もつかなかった。愚生の帰天はいつか知らないが、そう長くないことだけは確かだ。年賀状には「最近は向こう側に持っていけるものは体験しかないと、思い温泉旅行などを繰返す日々」だという文で〆た。中には、将来に不安を抱えている人もいるだろうから、あまり浮ついた話は避けた。ところで、不動産投資家で何十億単位の借財があるという自慢話をユーチューブで見る。しかし、金利が上昇したら大丈夫なのかと思う。土地バブルの頃、多くの不動産会社が借り換えできずに倒産した。その連鎖で、銀行までも潰れた。歴史は繰り返すというが、教訓になっていないことが多い。
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