組織で仕事をする場合は
今日は日曜日だ。仕事についていない高齢者には曜日は関係がない。気になることは、晴れなのか、寒いのかなどという気候のことが先だ。勤め人を辞めてから、すいぶんと時間が経つ。早期退職だったため、人が通勤に行く姿が羨ましいと思うこともあった。誰かと同じことをしていないと不安になったのだろうか。そう思いながら、当時は必死で日銭を稼ぐことを考えていた。退職してからもう15年近くになる。このブログを書き続けた期間と同じだ。外部との接触はないのは安心だが、何か一つくらい接点を持ちたかったからだ。人と付き合わなくてはよいのは気楽でよい。引きこもりの人の気持が分かる気がする。愚生の知り合いにも若い頃から引きこもりだった人がいる。親がいた頃は、何とかすねをかじって生活をしていたのだろう。社会との接触を断って生きてきたから、社会性が伴わずに自分の狭い視野と価値観からしか物事が見えないのだろう。こちらが配慮していることなど全く意に介せずに、ずけずけと非常識な考えを言う。愚生に限らず、自分中心に考えるのは当たり前だ。しかし、それと同時に他人もそうだから自分の思い通りに物事がはかどらないことも痛感している。現実は相手との按配というか折り合いをつけて生きていくしかない。そういう事を学ばないで時を経た人や環境があっても鈍感だった場合は、企業の組織や社会生活において、著しく損をしていると感じるはずだ。若い頃の記憶を辿れば、ずいぶんと侮辱気味な発言をした人物が、頭脳明晰であっても組織内で評価されずに不満を持っていることは多々ある。本人の弁では、人事が好きか嫌いかで決められていると言っていた。一理あるとはおもうが、組織で仕事をする場合は、それが一番先に来ることは多い。自分勝手な価値観は自由だが、グループや組織で行動する場合は、それでは困る。会社との付き合いは、はっきりいって金をもらいに行く場でしかない。それ以上でも以下でもない。お金をたくさん稼ぐには何が必要かと、自分を殺して社風にあわせるしかない。しかし、いくら拝金主義であっても、生きて行く上での最低限の美学は必要だろう。それを無くしてしまえば、人生などに意味があるのだろうか。愚生の周りには、そう言ってやりたい輩が多い。類は友を呼ぶのだろうか。
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