心と体

2019年5月13日 (月)

感謝する気持を持つことは重要

Download_6 カトリック・キリスト教会では、従者と声をそろえて礼拝参加者は「神に感謝」という。別段、イエス・キリストや神仏でなくても、物事に感謝する気持ちがなければ、心が満ち足りることはない。そういう意味では、感謝する気持を常日頃から持つことは、人が生きるために重要なことだ。半島の国では、戦前に売春婦をしていた婆さんたちが、慰安婦と称して金をせがむ。親に売春小屋に売られたのは気の毒だとは思う。しかし、恨の精神を関係ないところに求めて、金を無心することは恥ずかしくないのか。いくばくかの金を繰り返し要求して、生まれてもいない時代の子孫に反省が足らないと繰り返すことに恥らいはないのか。一方、愚生の知り合いの女性は、いつも大げさに感じるほど感謝の言葉を述べる。教会員だから教義に忠実なのかもしれない。また、過去と比較して、今の境地を述べているのかもしれない。いずれにしても、愚生もその謙虚さを見習わなければならないと感心する。反対に、口癖なのかもしれないが、年がら年中、不快そうに愚痴をこぼす人がいる。いつも自分が不利益を被むっていると思うのだろうか。人様に比べれば、十分恵まれていると見受けても不満らしい。愚生の親類にも、愚痴をいつも溢す人がいる。愚痴を言ったところで、問題が解決することはない。自らリスクを負って、相手と対峙しなければならない。しかし、そういう勇気は持ち合わせていないので自身の不運を嘆く。こういう人は、一生不愉快な気持ちで生きてい行くのだろう。同じ人生の長さを生きるのなら、楽しく生きたいものだ。ところで、愚生は口を開いて言葉を発するなら、相手を褒めた方が得だと思っていた。ずいぶん昔になるが、大学に入学した時のことだ。大学は、方々の地域の高校から入学してくる。中には、同世代の男性と口を効くことがなかった環境もあるだろう。相手の機嫌を取ろうと、無意識でお世辞を言ったところ、そんなつもりで言ったわけではないと感じることが多かった。心にもない口先だけの誉め言葉なのに、本気で受け取る人もいた。頭を冷やして、鏡でも眺めながら自分を見つめてみろと言いたくなった。豚もおだてりゃ木に登るといっても、相手がその気になって横柄な態度に出られると閉口する。半世紀経て彼女たちは、今どうしているのか。脳裏を辿れば、青臭い記憶が蘇る

 

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2019年4月 3日 (水)

金があれば幸せなのか

1d26c686 2017年に国連が発表した「世界幸福度ランキング」によると、日本は155か国中51位だそうだ。先進国のなかでは低い。いったい幸せ度とは、何をもって量るのだろうか。金があれば幸せなのかというと、そうでもないようだ。愚生の近所に、土地成金がいる。しかし、その老婆が幸せとは見えない。中には、お金が増えたことで幸せを感じる人もいるだろう。苦労して貯めた金なら、達成感とか充実感があるはずだ。愚生の場合も、比較的裕福な家に生まれたせいで、大きな庭のある家に住んだ。しかし、自分で築いた物でないせいだろうか。誇る気もなければ、嬉しいという気持ちもなかった。親の持ち物などに、全く興味はなかったせいだ。一方、今住んでいる家は、猫の額のような庭しかないが愛着がある。そして、この地を離れる気は毛頭ない。自分で苦労して住宅ローンを払ったせいだろうか。幸せを、どのような時に感じるかと問われると考え込んでしまう。あるコラムでは、幸せを調べるために1か月分のレシートをとって置くという話が載っていた。自分が、どのようにお金を使ったかを確認すると、自分が何を大切にしているかが分かるからだという。自分にとってなくてはならないことが、自分が何をもって幸せと感じるかの表れだという。最ものような理屈だが、直に首を縦に振れない。愚生はこのような意見には異議を唱えたい。なぜかと言えば、自分が使ったレシ-トなどから、幸せ度が推測できるとは思えない。このコラムでは、続いて投資とはパソコンの前で株価の動きを見張るようなことではない。幸せのための投資をするなら、投資した資産の日々の値動きにとらわれず、複数の資産にじっくりと長くお金を置いておくことが大事だという。要するに、世界経済の成長に合った長期投資を勧めている。確かに、愚生ごときでも退職してからの人生は長い。途中でお金がショートすれば、確実に幸せを感じることはないだろう。しかし、お金がショートしないから幸せかどうかは、別の議論がありそうだ。ただ、幸せを放棄するような無謀な投資は、避けなければならない。同じような投資に見えても、個々の立場でそれぞれの位置づけは違う。持っていた土地が偶然に売れて、大金が転げ込んだ。こういう人が、自分の空いた土地に賃貸アパート建設するのは問題がないだろう。少子高齢化で入居者が少なくなれば、家賃を値下げしても破綻することはない。一方、手元資金もなく、収入も少ないのに、空き家の壊し料金から建設費までを借金をしてアパート建設をする。インフレになれば、借金は棒引きになって儲かるはずだ。しかし、今はデフレだから安い金利で銀行が金を貸す。だから、今のデフレが今後も続けば、借りた実質金利は決して安くはない。成功パターンは、金を借りたときはデフレで、借金を返し始めるとインフレになることだ。しかし、そんなに上手く世に中が動いてくれるだろうか。1990年ごろの土地バブル時に、無理をして大金を借りて、家を建てた人はその後のデフレで苦しんだ。自宅だから苦しむので済んだが、投機として土地を買ったひとは、ほとんど破綻しただろう。バブル期の越後湯沢のリゾートマンションや那須の別荘地など、今は「兵どもが夢のあと」と化している。

 

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2018年9月19日 (水)

長く生き過ぎることも厄介なことだ。

Img1_0718_3    昨日は、親戚の葬式があった。愚生よりも、6歳も年下だと言われると、明日は我が身と言う気がする。まだ若い娘を残して死にゆく母親の気持ちとは、どういうものなのだろうか。88歳になる実母の米寿祝を行う前日に息を引き取った。14歳で若く先だった兄も、914日が命日だと言うから、なにか因縁めいたものが感じられる。ただ、順序が逆になって、一人残された老婆の気持ちは量りようもない。ところで、その葬式に参列した、坊主(浄土真宗東本願寺)と鎌倉仏教とキリスト教について、話す機会があった。会話というか、愚生がハイボールを飲みながら一方的に知見を喋りまくっていたようだ。周りからは、顰蹙を買っていたと後に愚妻から聞いた。どうも酒を飲むと、元気が出て、誰構わずに話して鬱積を発散している。他人には迷惑だろうが、愚生の健康にはすこぶる好都合だ。介護施設に入居している義母も参列していたが、本人は何でもできると思ってやりたがる。しかし、周りは傍迷惑をする。年老いてボケが入ると思うと悲しくなる。介護施設で、快適なのかと思いきや、洗濯や家事をしなくなったので、ボケが進んだと恨み言をいう。ボケが進んだから、介護施設に入ったとは思っていないようだ。愚生の実母などは、「こんな牢屋みたいなところには居られない」と怒っていると聞いている。そして、病院に入院したいと言うが、健康保険で介護などできないことが解らないようだ。老人たちは、自分が一体いくら公費を使っているか考えたこともない。そのくせ、不満ばかりが口を突く。いい加減にしろと言いたい。若くして死ぬのも辛いが、長生きして胡散臭い目で見られるのも閉口だ。死ぬことも大変だが、長く生き過ぎることも厄介なことだ。今回、何年かぶりに、実の親兄弟が住まなくなった田舎に帰った。目新しいものと言えば、朝早くホテルの部室から見た、LRTの軌道が印象的だった。

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2018年9月10日 (月)

他人のことは良く見えるようだ。

Photo 今日の大谷君の出場試合は、日本時間で午前三時からだった。愚生が応援したからといって彼が打つとは思えない。しかし、大谷君が打つと何かすっきりした気分になる。そういう訳もあって、今朝は早く起きて寝床の中から試合をテレビ観戦した。最後の打席で、何とか二塁打を打ったので溜飲が下がった。當に、一服の清涼剤だ。こう考えると、愚生のような者と彼を比較すること自体が失礼な気がする。そう言う愚生も、棺桶に足を突っ込んだような年寄りには、上から目線で生産性もないのに医療費を使い過ぎると批判的だ。人とは、自分の事は棚に上げて、他人のことは良く見えるようだ。自分の人生を振り返って見れば、走馬灯のような時期もあるが、詳細を鮮明に思い浮かべる頃もある。人生も終盤を迎える。懐古主義に浸って、40年以上も前の学友の音信を確かめるために、葉書を送っても何ら返事がない。彼らが生きていることは、風の便りで知っている。しかし、いくら彼らの心境に踏み込んで詮索してみても、見当がつかない。そうして、返事がないのは愚生が嫌われているからなのだろうかと不安を感じる。ただ、過去の記憶を辿って見ても、好き嫌いを問われるほど親しくした記憶もない。いろいろ考えて、彼らの生き様を詮索してみたところで、予想などつくはずもない。他人のことはともかく、自分の終盤だけは、刻々と近づいていることだけは確かだ。そう考えると、日々の時間の使い方が正しいのだろうかと心配になる。

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2018年8月11日 (土)

身の丈にあったことで満足し、感謝する

Images 藤原道長が詠んだ有名な一句に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という句がある。これは、朝廷内での陰湿な権力闘争の末に、道長の娘を66代天皇以降の后に着け権力を掌握した。その結果、敵のいなくなった道長が自分の気持ちをストレートに表現した句だといわれる。しかし、こういう心境に着ける人は稀だろう。ほとんどの人は、何かにつけて不満を持つ。過去の自分と比べて。あるいは羨むような知人との比較からかもしれない。いずれにしろ、感謝の気持ちがなければ人の強欲は抑えようがない。得られたものを前提に、また何かを欲すれば、何時まで経っても欲求は収まらない。帝国主義時代の領土拡張競争も同様な理屈かもしれない。与えられた物を、正しく評価できるのは、それを失った時だけかもしれない。失って初めてその価値というか、有難さが身に染みる。健康もそうだろうし、平和もそうだ。愚生の友人からも、愚痴を聞かされることがある。それは、定年を控えて、職種転換を強いられたことからの不満だった。確かに、愚痴る友人の気持ちは解る。しかし、会社にしがみ付かないで決別しさえすれば、その悩みは解消するはずだ。彼の悩みは、会社を辞めないで留まろうとするからの不満だ。愚生の母も長生きして、友人がいなくなったことを嘆く。戦前教育を受けた母は、生きたいのに若くして死んでいった人を多数知っているはずだ。両方くれと言うのは、贅沢だと窘める。そういう愚生も自己実現ができると、また次を目指す。過去を振り返って、雌伏した時と比べれば今は極楽浄土の心境かもしれない。身の丈にあったことで満足し、感謝する気持ちがなければ、修羅界や飢餓界からは永遠に逃れられない。人は、上手くいくと増長してハードルを上げてしまう。愚生も抑止が効かなければ、また元の木阿弥だということを肝に銘じて過ごしたいものだ。

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2018年7月22日 (日)

身の丈にあった振る舞いが最善

Sddefault 私立大学支援事業を巡る汚職事件に絡み、東京医科大学の裏口入学が騒がれている。今年、実施した入試の1次試験で、複数の受験生の試験結果のデータが改ざんされていた。受託収賄容疑で逮捕された同省前局長の息子を含む、複数の受験生に対する不正が確認された。昭和20年代生まれの愚生には、当時、私立医科大進学といえば、医者の子供以外は考えられない時代だった。寄付金が一番安いと言われた、昭和医大でも300万円程度だった。当時の大卒初任給は3万円くらいだった。それから換算すれば2500万円くらいになる金額だ。その時の国立大学入学金は1万2千円。そういうわけで、愚生のクラスから医学部に進んだのは、一人を除いてすべて国立大医学部だった。その私大医学部に行った友人の家は、田畑を売ってお金を捻出したと聞く。その当時でも、医者の息子以外は私立医科大に行っても算盤が合わなかった。勤務医は、大企業に勤務するサラリーマンと比べて、可処分所得や退職金、年金まで考えればそれほど高収入でもない。毎日、病人とface to faceの医師業に、それほど魅力を感じることはいないだろう。大学医学部に進学することは、国家試験の受験資格が得られるだけだ。東京医科大の問題を、そう目くじらを立てて騒ぎ立てることはない気もする。私立大学などは、昔も今も推薦入学など含めて、大量に生徒を募集する。これとて、裏口入学と紙一重で何が違うのだろうかと言いたい。今回、非難されるとすれば、裏口入学の寄付金を身銭ではなく国民の税金を元文科省官房長が使用したことだ。今回の懲戒免職で、退職金と天下り先がなくなったことは大損だ。それなら、銀行から金を借りて、寄付金に充てたほうがよかった。特捜部は、加点対象となった受験生の名前と加点される点数が記載されたメモも入手している。それが、パソコンの解析結果とも一致しているから、受託収賄罪は免れない。ところで、入学した息子はどうなるのだろうか。入学取り消しでは、あまりにも可哀そうだ。親のおせっかいで、子供には罪はない。親バカに振り回された子供は可哀そうだ。愚生の友人にも、親の希望を子供に託して、辛い思いをしている人を見る。聖書にも「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」(創世記3:19)とある。古い昔から、言い聞かされてきた箴言だ。人生は一回きりで、やり直しは時間が許さないことが多い。晩年、それを悔いている人は多いだろうが、時すでに遅しだ。そう考えれば、身の丈にあった振る舞いが最善なのではないか。親が子供の一生を振り回すことは、控えるべきだとつくづく思う。

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2018年6月11日 (月)

足るを知る者は富む

Img_0  東京地方も梅雨に入った。愚生宅の外壁塗装も先週土曜日に終わったため、キリが良かった。梅雨前には終わらせたいと思って、昨年からペンキ屋さんと打ち合わせていたことが功を奏した。備えあれば患いなしという格言がある。ここで使うことが適当かどうかは知らないが、つくづくそう思う。そして、ワールドカップが今週から始まる。日本代表が善戦することはないという前触れだ。愚生も、はっきり言って期待していない。期待の星、大谷君もDL入りというから今年前半の試合には出られないようだ。今週からのイベントはたくさんあっても、愚生が喜べるようなものは少ない。昨日箱根から帰ったばかくりだが、特にすることもないので、来月に行く東北旅行の下調べでも使用かと思う。この歳になると、何時まで足腰が立つかわからない。愚生のカミさんも、一昨年に長期入院をした。その時は、もうこれで夫婦そろっての旅行などはできないと思った。運よく健康が戻ったので、旅行は行けるときに、どんどんするべきだと痛感する。OB会で、退職後に非正規雇用として働いている学友は、モチベーションを持ってする仕事ではないと嘆く。ただ、年金が満額出るまでの繋ぎだという。愚生は、早期退職をして自由業として生きてきた。確かに、自由業というと聞こえが良いかもしれないが、働いても賃金が保証されるわけではない。儲からない時は、辛いこともある。しかし、雇われていないという心の自由が、多くのリスクを相殺してくれる。一度、独立してしまうと勤め人に戻る気にはなれない。長いサラリーマン生活で、心安らかに会社生活をしたことはなかった。生活保障はあっても、窮屈な閉塞感で締め付けられる気分は、もうこりごりだ。そう考えれば、今の生活に感謝しなければならない。人は、自分が手にしているものを嘆き、自分に無い物を渇望する。そう考えれば、「知足者富」老子が説くように、「満足することを知っている者は、心豊かに生きる」という箴言に耳を傾けたくなる。

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2017年11月17日 (金)

日馬富士は永久追放、白鵬・鶴竜は引退勧告

As20140404004167_comm 今朝のテレビニュースで、モンゴル人力士の口裏合わせが散見される。白鵬は、日馬富士はビール瓶で貴ノ岩を殴ってはいない。ビール瓶を持っていたが滑って落ちたという。馬鹿も休みやすみいえと言いたい。ビール瓶で殴ったその瓶が、勢いのあまり手から滑り落ちたのだ。いずれにしろ、医師の診断書は「脳振とう、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折、髄液漏の疑い」と深刻な症状だ。理由はなんであろうと、相手を殴って重傷を負わせれば傷害罪だ。相撲界というところは非常識極まる。元時津風(双ツ竜)親方など、リンチで弟子を殺しておいて、指導だと言い放っていた。その証拠に、貴ノ岩の兄ルブサン・アディヤさんがテレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」の取材に応じて真相を話した。日馬富士から暴行されたことを貴ノ岩から知らされたのは「29日から30日あたり」とし、「自分に落ち度、非がないのに暴行を受けたと声を震わせながら話した」と証言している。そして、関係者によると白鵬が止めに入ったという証言もあるが「横綱白鵬が同席していたけが止めなかった。なぜ同席していたのに止めなかったのか」、ルブサン・アディヤ氏は「悔しく思っている」と吐露した。これでは、白鵬は共同実行の意思の形成過程に参加したことになる。実際に白鵬は、傷害に参加しなかったが共同正犯だ。日馬富士と同様に、白鵬も即刻休場扱いとすべきではないか。日馬富士は傷害罪。白鵬、鶴竜は共同正犯であれば、心技体の横綱に相応しくない。当面、相応しくないモンゴル人横綱は休場させるべきだ。今回の事件で、立川志らく氏は「貴乃花親方を非難するような声も出ているけど」とした上で「弟子って思うから、ちょっと分かりづらいけど、自分の息子がビール瓶でぶん殴られてケガさせられたら、当然、訴えますよね」という。協会に相談せずに被害届を鳥取県警に出したことは「相撲界の隠蔽体質が分かっているから、話しをしたらつぶされてしまうんじゃないか。貴乃花親方は相撲界を変えるために、日馬富士を辞めさせてでも、そういう覚悟で」と親方の思惑を推測する。さらに志らく氏は、今回の貴乃花親方の行動を「警察沙汰にして日馬富士辞めてもらって、そんでもって何とか変えるんだという、そういう狙い」と繰り返す。愚生も全く同感だ。相撲協会に言えば、理事長預かりとなり身動きが取れなくなる。今回の傷害事件は、日本の刑法によって裁かれるもので、相撲協会が云々言う話ではない。白鵬が今回の口裏合わせを主導しているなら由々しき問題だ。そもそも、休場する鶴竜が酒を飲んでいるなど日本の相撲を舐めきっているからだ。貴乃花親方の母でタレントの藤田紀子さんは、16日放送のフジテレビ系「バイキング」に生出演し、大相撲の日馬富士が暴行した事件について「また起こったかと思いました」と言及した。そして、貴乃花親方は鳥取県警に被害届を提出したが、協会のヒアリングで「分からない」と答えたことに藤田は「分かっていても言えないということだと思います」と推測した。さらに「届けを出しているから司法にお任せします。今、余計なことをしゃべると両方にとってよくないという判断があったと思います」と貴乃花の腹の内を推測する。貴乃花親方が貴ノ岩の休場に伴う診断書を場所前ではなく2日目に提出したことは「私には分からない裏の何かがあったのかと思います」とし、殴打事件の後も貴ノ岩は巡業に出たが「頭で当たってはないと思います」とコメントした。その上で「モンゴルの仲間達と会って、お酒の出来事がありました。力士は親方を怖がっています。モンゴルの同朋の横綱のことは言えない。それで事情を聴くのは遅れたんだと思います」と貴ノ岩から親方の報告が遅れたのではと見通した。また、酒席に白鵬、鶴竜、照ノ富士ら横綱・大関が同席していたことにも触れ「下の格の力士ではない。横綱、大関がいながら、力づくでもどうして止められなかったのか不思議。力では負けるわけがないのですから」と疑問の声を上げた。貴ノ岩の生活態度への注意がトラブルの発端とされているが「一人の横綱が怒って注意をしているのだから、他の横綱、大関は口出ししまいと思ったかもしれませんが、状況によっては止めるのも親切。そうすればここまで大きくはなっていなかったかもしれない」との考えも示した。相撲部屋の女将さんの意見だから、説得力がある。相撲界は、愚生の住む世界とは違うのだろう。しかし、ここは日本だ。モンゴルではないし、強ければ暴力が免罪されるわけではない。日馬富士や白鵬、鶴竜も相撲は良く知っていても日本の慣習には疎い。白鵬が口裏合わせをするのは、傷害事件での共同実行の意思とも受け取られる。横綱は心技体というが、モンゴル人三横綱とも相応しくない。相撲協会は、刑事事件の日馬富士は永久追放、白鵬・鶴竜には早く引退勧告を出して収めるべきだ。

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2017年8月 5日 (土)

喜怒哀楽の感情は受ける側の微分値

Mohai__j_n_hoopers_barber_shop__a ブログを書こうと、パソコン前のバーバーチェアのような椅子に座っていると、睡魔が襲ってきた。別段、何かしなければならないことはない。猫のトイレの砂も取り替えたしと思いながら、小一時間ばかり寝てしまった。受験生時代に、眠いのを我慢していた頃を思い出せば、つい藤原道長が読んだ「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることも なしと思へば」という詩が頭に浮かぶ。この詩の解釈はいろいろあるようだ。とりあえず「月の満ち欠けさえも自分に掛かれば意のままになる。」という驕った説にしよう。当時、権力者の頂点に立つ道長は、紫式部をはじめ当時の一流の女性たちにモテたであろう。そして、光源氏のモデルだったとも言われている。詩を詠んだのは、酒席での座興のアドリブだったといわれている。そうであれば、推敲しつくした詩ではなく、深い意味はないのかもしれない。愚生のような凡人には、縁のない境地だったことに違いはない。ただ、人生において、喜怒哀楽の感情は受ける側の微分値だと考えれば、何かあるかもしれない。道長の何万分の一でも良いから、詩のような境地があっただろうか。そう思いなおして、愚生の人生を思いめぐらせば、短い期間だったが一度や二度はあったような気もする。小職の愚生が、思いもよらず大成功したときなどが、それかもしれない。また、スケールは違うが、望んでいたポストに就いた時かもしれない。人生で日の当たった時を思い出すと、何かホットして安心する。ただ、今の愚生にとっての道長の心境は、寝過ごしたとしても何も困らないことくらいだ。簡単に得られる欲求で満足できる愚生は、幸せ者かもしれない。そう思うと、稲田朋美や豊田真由子の恥を恥とも感じない感受性に同情する。

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2017年8月 1日 (火)

8月になると何かもの物悲しい

1208zama2181 今日から8月。学生時代は、8月になると何かもの物悲しい気分だった。夏休みもあと一月、お盆を過ぎれば残りの休みを指折り数えていた。ただし、遊学をしていた大学時代だけは、自由奔放に遊び廻れたため例外だ。母親が帰省しろと煩く言うので、数日間は郷里の実家に戻った。しかし、その間も閉塞感で苦痛だった。そのせいか、大学時代の夏休みがそれ程ありがたいとは思わなかった。しかし、学生の特権というか、アルバイト先で稼いだお金で、時間が許す限り旅行などをした。その間も、いつも将来に対する漠然とした不安が、自分の心の中にあった。工学部の学生だった愚生は、企業への就職ということが、常に頭から離れなかった。大学時代に享楽に耽って、働き始めるスタート台に立てない人もいる。将来の目的をはっきり持ってないと「学生の本分は勉強」という事を忘れてしまう。学部を8年間もかけて卒業して、如何わしいアルバイト先の業界に入ったという人もいた。それなら、大学の学位など取る必要はない。また、入学した解放感から、授業をサボりほうけて、卒業見込みが立たずに退学した人もいる。いずれにせよ、その人にとって何が良いか判らないことも多いから、それも人生なのだろう。皇室に入った雅子妃などを見ていて、つくづく何のためのキャリアだったのかと同情する。愚生の勤め人時代、芥川龍之介の短編小説「蜘蛛の糸」に出てくるカンダタが蜘蛛の糸をよじ登るような世界だった。しかし、傍から見れば、平々凡々の人生に見えたかもしれない。ところで、愚生の頃は、企業の青田刈りが禁止の時代だった。そして、オイルショックで就職の氷河時代だ。4年生時の8月とは、就職試験開始の直前の頃だ。当時はクーラーもない時代だった。暑さ凌ぎに、夜から朝にかけての長い時間、就職試験問題を解いた記憶がある。今から思いだせば、若い頃はいつも何らかの葛藤があった。それなりに大変だった気もする。一方、賞味期限が切れかかった今は、抑圧から完全に解放された。というより、叶わない欲望を捨てたというほうが正しい。あと、何年生きられるのだろう。夏休みの残り日数を数えるのとは別の意味で物悲しい。

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