生死や運不運もすべて「ゆらぎ」の結合体
会社をリタイヤして、利害関係の付き合いがなくなると多少寂しい気分になる。多くの付き合いが、利害関係で成り立っていたことを認識させられるからだ。また、付き合い自体が共同社会から生まれるのかもしれない。教会関係の知人や近所付き合い、そして大きく広げれば親子や兄弟関係もその範疇かもしれない。愚生の関係から例外的なものを拾い上げれば、お袋との関係などかもしれない。お袋は話のネタに愚生を貶めたりする。本人はそうではないと否定するが、指摘すると大した話ではないからだと気にしない。批判する方はそう思っていても、言われる方は気分がよくない。カミさんの母親とずいぶんと違う。人は自分の価値観で物事を論評する。そして、忙しいという事を自己の優先順位で決めつける。愚生がF社で小職をしていた頃、部下の人が休む暇もなく忙しいと言う。愚生も部下(川崎市在住)に、「あす札幌まで行けば1億円がもらえるという上手い話がある」と尋ねる。それには、皆同様に「会社を休んで1億円をもらいに行く」という。要するに今の仕事が忙しいといっても、もっと優先順位が高い内容が入れば、脇に置いてしまう。人の価値観なども、同様なのだろう。愚生自身も妻や子供が出来てしまうと、家族優先で親への配慮は一段下がった。自分の息子たちがそうだったとしても、それを咎め批判はできない。本来なら家族を犠牲にしても親に尽くすべきなのかもしれないが、「生者は死者の為に煩わさるべからず」との意見もある。代替わりは自然の法則だろうから、生物は適者生存が遺伝子に含まれているのだろう。人の生死や運不運に関しては愚生なりの考え方を持っている。それは、物体の最小単位である素粒子が、実は粒子ではなく、「ひも」のゆらぎであるという仮説が正しいとする。これは、「超ひも理論」という、物理学の最終理論と目されている理論だ。アインシュタインの相対性理論と量子力学の2つを矛盾なく説明する。現在は、「超ひも理論」しか存在しない。そうであれば、超ひも理論において、素粒子はすべて「ひも」の振動として扱われる。三次元的に見える物体や物質も、細かく砕けば、すべて振動ということになる。宇宙空間も含め「ゆらぎ」の結合体だ。古に遡れば、宇宙には水素とヘリウム元素しか存在しない。超新星の爆発で炭素や酸素などを含んだ塵やガスができた。そして、その残骸が惑星の材料となり、地球が生まれた。その地球から生まれたものが私たちだ。こう考えると、創世記2章7節にあるように「 主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」という記述通りだ。また、人を構成するものは、宇宙の塵だから創世記3章19節にあるように 「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」とあるように、死後、土に返る。聖書が正しいとは思わないが、すべての物の根源が「エネルギー的なゆらぎ」なら生死や運不運もすべて「ゆらぎ」の結合体の見え方でしかない。「周りと不均衡な振動」は淘汰されるというのが愚生の乱暴な考え方だ。その結果、三次元的には生死や運不運となって現象が現れる。ずいぶんといい加減な考え方だが、愚生はそう思っている。要するに、「因果応報」だ。仏教用語として用いられる場合は業(カルマ)論と関連して、自己の境遇に関する因果関係として語られる。こう考えれば、「キリスト教」も「仏教」、そして「アインシュタインの相対性理論」と「量子力学」包含してしまう。
最近のコメント