キリスト教

2017年4月16日 (日)

天に唾するような身を人前に曝したくない

5159zameatl  今朝のフジテレビの時事放談に、安倍晋三首相に外交を語る資格はないと叱責された田中均元外務審議官が出演していた。なぜ、安倍首相に批判されたかと言えば、田中は北朝鮮拉致被害者5人を北朝鮮に返すべきだと主張したからだ。安倍首相は、それを説明した上で、「あの時、田中氏の判断が通っていたら5人の被害者や子供たちはいまだに北朝鮮に閉じ込められていた。外交官として決定的判断ミス」だという。当時の安倍副官房長官が、それを覆さなかったら、今も蓮池薫さんらは北朝鮮に軟禁されていただろう。外務省の役人とは勝手なものだ。拉致被害者の親族や当事者のことなど、全く考えていない連中だ。文科省の役人は、教育の総本山という位置にありながら、自からの老後の就職先を、脱法して組織ぐるみで作っていた。こんな連中に、道徳教育が云々など言われたくもない。全く悲しい限りだ。外務省の役人なども、日本の外交より自分の飯の種が遥かに優先する。田中のような連中を、安い出演料で使うテレビ局も問題だ。愚生は、田中の顔が映った途端に、不愉快になってチャンネルを切り替えた。だから、彼が何を話したかは知らない。いずれにしても、厚かましくテレビに姿をさらす年老いた醜悪な面からは、自尊心や美学の欠片も揉み取れない。結局、役人を終えた人材などどこに行っても使い道はない。というか、その程度の仕事しかしていなかった。左翼系の毎日新聞に、彼らの主義主張に耳障わりの良い論評をして、紙面で使ってもらいたかったというのが本音だろう。安倍首相が批判した直接的な原因は、毎日新聞のインタビューで、田中が「国際会議などで、日本が極端な右傾化をしているという声が聞こえる」「中韓に日本を攻撃する口実を与えてしまっている」などと安倍首相の外交姿勢を批判したことだ。文科省の役人は金だけだったが、田中は拉致被害者の生命や人生を売ろうとしたから罪は重い。ところで、今日はイースターだ。パウロ書簡のガラテア人への手紙には、(6章7節~)「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とある。ある行為の結果が、わが身にはね返ってくる。絶対神であるキリスト教には、仏教特有の因果応報の思想はないという。しかし、箴言というか、やはりそれらしい記述はある。年老いてから、天に唾するような身を人前に曝したくないものだ

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2016年12月25日 (日)

キリスト生誕は12月25日でないことは確か

1485_ghf  クリスマスが終わると、もう正月だ。日本では、クリスマスというと信仰に関係なく便乗して祝う人が多い。そもそも、XmasとはX(ギリシャ語でXristosの頭文字)+mas(礼拝)の造語だ。Xristos(クリストス)とは「油を注がれた者」、つまり「救世主」を意味する。ところで、イエスの降誕が記されているのは、マタイとルカの福音書だ。最初に書かれたマルコの福音書には、イエスの降誕など記述されていない。マタイとルカの福音書によれば、イエスはユダヤの町ベツレヘムで処女マリアより生まれた。処女懐妊という記載は、イザヤ書7:14の 「あなたたちにしるしが与えられる。見よ、おとめ(ヘブライ語ではアルマー)が身ごもって、男の子を産み」 という箇所で、ギリシャ語訳で「乙女」を「処女」とした誤訳だという説が多い。マタイ福音書では、ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていない。一方、ルカ福音書の場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。新約聖書とは、旧約聖書の証であるため、「ベツレヘムは古代イスラエルの王ダビデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言(ミカ書5:1)」から採用された箇所だろう。そして、マタイ福音書では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来る。ルカ福音書は、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる。「牛はその飼い主を、ロバは持ち主の飼葉桶を知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。(イザヤ 1:3)」という箇所から、馬とは関係がない牛とロバが記されている。新約聖書とは、イエスの磔刑場面をはじめ、ほとんどが旧約聖書から転記されたものだ。愚生の覚えでは、ユダヤ教改革派のイエス一派(キリスト教徒は後の呼び名)が自分たちの権威付けをするために新約聖書が必要だったようだ。 そして、クリスマスの由来は諸説あるが、古代ローマで冬至の日に行われていたお祭りが、イエス・キリストの生誕祭と結びついたといわれる。実際のところは、よくわからない。ただ、イエス・キリストの誕生日が12月25日でないことだけは確かなようだ。

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2016年9月 8日 (木)

罪み深い者の代表例として娼婦が挙げられる。

Tiziano2020maddalena20penitente オバマ米大統領を口汚くののしったことで、フィリピンのドゥテルテ大統領との初めての会談が中止になった。フィリピンのドゥテルテ大統領は、暴言王として知られる。このドゥテルテ氏は、フィリピン国内の治安改善のため薬物犯罪の根絶を掲げる。ただ、就任から2カ月余りで、警察官に射殺された容疑者の人数が1000人を超えた。これは、取締りという名で、超法規的な殺人を敢行している。容疑者を裁判もなく、殺戮するのであればフィリピンはもはや法治国家ではない。オバマ大統領が人権問題に言及するのは当然だ。愚生は、下衆の勘繰りで、一体どんな暴言を吐いたか気になった。その暴言とは、現地語で売春婦の息子と罵ったらしい。どうも、オバマ大統領が白人と黒人のハーフだったから、お母さんは売春婦だったと思ったのだろう。キリスト教の「新約聖書」の登場人物の中に「マグダラのマリア」という女性がいる。最近「ダ・ヴィンチ・コード」で、イエス・キリストの妻であったという仮説で、映画の中で取り上げられた。しかし、愚生の属するカトリック教会では、そのマグダラのマリアを娼婦だったと規定する。要するに、罪み深い者の代表例として娼婦が挙げられているからだ。そして、そこから生まれた子供も呪われた忌み嫌らわれた者だ。フィリピンは、長い間スペインの植民地だった関係で、カトリック教徒の国だ。ドゥテルテ大統領の暴言は、宗教的背景まで入れれば、かなりの言い過ぎだ。外交音痴な素人大統領には「井の中の蛙大海を知らず」という諺を贈りたい。そして、朴槿恵を他山の石とすべし。

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2016年8月21日 (日)

他人のこととなると厳しい目で見る

Tumblr_inline_ny7caben991skjhzr_250 古いアルバム整理をして、追加で新しいアルバムを注文した。相当の冊数になってしまった。ここ10年くらい撮った写真はファイル管理しているから場所をとらない。OB会の写真集も、インターネット上のサーバーで編集しているため、場所を取らない。アクセスもどこからでも可能だ。便利になったものだと思う。愚生のアルバム整理で見つかった旧友の集まりや結婚式の写真もスキャナーで読み取って公開(ID パスワード要)した。友人からは、忘れてしまっていたことを思い出したと返事が来た。一枚の写真から、多くのことが連想して蘇る。義母が介護施設から自宅に帰ると、時間があればいつも古いアルバムを見て過去の思い出に浸っている。愚生もいずれは、そういう時が来るのだろう。拙いOB会のHPだが、友人からの感謝の声が多少でもあればやる気が出る。歳を重ねても、自己の過失を認めずに、自己主張と他者批判だけは立派な人がいる。以前は不快だった。だが、最近は社会不適合症や脳の縮退からくるものだと思えば、腹は立たなくなった。親しい友人がいないという人は、性格の一部がどこか曲がっているのだろう。それが酷くなると、病気と称しているのだ。どうしても、他人のこととなると厳しい目で見てしまう。マタイ7章の「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか。」「視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。」という聖句を思い出してしまう。

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2016年8月17日 (水)

障害者のリハビリテーションは非障害者のリハビリテーション

C97b272fe52a8c3ce0261db1c3d4ef468e4 銀座線青山一丁目駅で、視覚障害者がホームから転落し、電車にはねられ死亡した。視覚障害者は盲導犬に先導され、ホーム上の柱をよけるように線路側に近づき、ホームから足を踏み外した。同駅のホームの幅は約3メートルあるが、複数立つ柱からホームの端までは約1.2メートルしかない。事故直前に、駅係員は白線の内側に下がるようマイクで注意したが、視覚障害者はホームから足を踏み外して線路に転落したという。愚生も銀座線を使うこともあるが、古い路線のせいもあってホームの幅は狭い。視覚健常者であっても、ホームからの転落不安はある。今回の事件で、盲導犬を責めるわけにはいかない。キリスト教の聖書には、無数の障害者が登場する。その聖書に登場する中には視力障害者もいる。当時は、昔の日本同様に障害は「たたり」や「罪の結果」だと信じられていた。そのため、イエスに批判的なパリサイ人は、視覚障害者を癒して開眼させたこと否定的だった。パリサイ人らはイエスに「私たちも盲目なのですか」と尋ねた。「もし盲目であったなら、罪はない。しかし目が見えると言い張るところに、罪があるのだ」とイエスは答えた。この箇所は、イエスが救い主だということを拒否した罪を指摘したものだ。この視点から「障害者のリハビリテーションは非障害者のリハビリテーションだ」という神学者もいる。今までは障害のある人が問題だと考えている。それが、そういう人たちを迎え入れようとしなかった社会にも大きな問題があることを気づかせる。ノーマライゼーションであり、バリアフリーの潮流はこの考えに沿っている。「目の見えなかった者が見えるようになり、見えると自称する者が見えなくなる」というイエスは、この逆転の中に神の救いと裁きを見ている。今回の事故は、視覚障害のない者が事故を予見できなかったことが問題だ。駅係員は白線の内側に下がるように、白線が見えない視覚障害者にマイクで注意するだけでよかったのか。そもそも、事故が起きそうなホームの改修を進めないで運用することも問題だ。それができないなら、駅係員が構内で視覚者を誘導していればこのような事故は起きなかった。東京メトロ経営者も行政指導する政府も、よく目が見えていない。

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2016年5月31日 (火)

信じるものは救われるのだろうか?

St_barnabas_ap_m 昨日は薄商いの中、日経平均が1万7千円を越えてきた。ポートフォリオを考えた長期投資というか、資産保全に切り替えたため株の売買を停止した。そうした途端に、株価の変動がそれほど気にならなくなった。多少の含み益があることも一因かもしれない。気持ちが揺れなければ、長期保持では利益が入ると確信している。大きく狙わず、ほどほどに儲かればいいと思う。残りが数えられるようになった年月を大切にしようと思う。朱熹の有名な詩に「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。いまだ覚めず池塘春草の夢。階前の梧葉すでに秋風」というのがある。小さい頃から諳んじていたが、有言不実行で、時間は無限にあるものと思い軽んじてきた。晩年になるまで、生きることしか考えなかったということだろう。言い換えれば、死ぬ準備ができていない。愚生の母も、自分は人生を悟ったと諭していたが、肺炎を患った時に大暴れして病院を煩わした。歳をいくら重ねても、いざ死に直面すると素直に受け入れることはできないようだ。友人の母も、自分はいつ死んでもいいと思うが、今は少し早いと言う。たぶん、死ぬまで同じ言葉を繰り返すだろうという。そう考えると、還暦過ぎたとはいえ愚生など、まだまだ若輩者だ。そして、死の直前まで生きることしか考えていない気もする。一つ誇れるとすれば、似非クリスチャンだが、保険として洗礼を受けていることだ。ヨハネの福音書3章に、「それは彼を信じるものが、すべて永遠の命を得るためである。神はそのひとり子をお与えになるほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである。彼を信じるものは裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」という箇所がある。信じるものは救われるのだろうか?

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2016年2月13日 (土)

カトリック教会とロシア正教会の違い

Pb15 カトリック教会のローマ法王フランシスコと、ロシア正教会のキリル総主教が、キューバの首都ハバナの国際空港で会談を始めたというニュースがあった。キリスト教会が1054年に東西に分裂して以降、両トップが会談するのは初めてだという。愚生のような似非カトリック者でも、信者になる前に教育を受ける。愚生の場合は、洗礼はプロテスタントの日本キリスト教団から受けたため、改宗という形でカトリック信者になった。キリスト教に興味がない人には、つまらない話だが、カトリック信者でない者は、ミサで配られる「ホスティア」は食べられない。ただし、東方教会(ギリシャ正教)の信者は、他宗教という扱いだが食べることができる。紛らわしいが、ローマ教皇という職位は、コンクラーベ(選挙)で選ばれた、西方教会の最高位だ。一方、ロシア正教会とは、コンスタンディヌーポリ総主教を名誉的なトップとし、グルジア正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会といった、諸々の独立正教会・自治正教会が連合体だ。愚生の記憶では、東西の違いは歴史教科書にある西ローマ帝国とビザンチン帝国(東ローマ帝国)の違いからくる。一方、教義においては、「聖霊の父(神)」および「子(イエス)」との関係について、東西教会の違いがある。西方教会、つまりカトリック教会、プロテスタント教会においては、「三位」の「位」は「人格」と解され、三位一体論は「三人格」で実体を同じくする神とする。三位一体のうち、一体を重視する。(イスラーム教のアラー神に近い)これに対して、東方教会は、「三位一体」とは言わず「至聖三者」という。これは三つの「実体」と「存在・本質」、つまり父(神)・御子(イエス)・御霊(聖霊)の自存性が強調される。愚生のようなおおざっぱな人間には、些細なことにしか思えないが、重大なことのようだ。ところで、パウロ書簡の第一コリント7章で独身について「結婚して自分の童貞性を離れる人もりっぱに行動していますが、結婚しないで,それを離れない人は、さらにりっぱに行動していることになります。」とある。(コリント第一7:38)パウロは「すべての人がわたしのようであればと願います。」とも述べている。(コリント第一7:6)つまり、パウロが独身であったように、独身であるのが望ましい。要するに、聖書にはできれば、独身を保つようにと勧めている。そのため、カトリック教会では聖職者の独身制を定めている。ところが、東方教会においては、在俗司祭は妻帯していることがほとんどである。(ただし、修道士(女)は独身)愚生には、プロテスタントの牧師は務まっても、神父は絶対に無理なことは明らかだ。

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2015年11月16日 (月)

結婚式の讃美歌

Images 昨日、近くの激安食料品店に行くと、もうクリスマス・ソングが流れていた。日本のキリスト教徒の数は、僅か1%前後だ。(106万169人キリスト教年鑑2012年版)。その中には、愚生のように洗礼を受けただけの如何わしいクリスチャンも多いだろうから、実数はもっと少ない。店先で流る聞き覚えのある歌は、プロテスタント教会で歌われる讃美歌だ。そもそも、カトリック教会の典礼聖歌などが、巷で歌われるはずもない。結婚式場に設けられたチャペルで歌われる歌は、「讃美歌312番」が圧倒的に多い。歌詞は以下だが、日本ではキリスト教徒以外には馴染みがない
【いつくしみ深き 友なるイェスは
罪科(つみとが)憂いを 取り去り給う
心の嘆きを 包まず述べて
などかは下ろさぬ 負える重荷を
いつくしみ深き 友なるイェスは
我らの弱きを 知りて憐れむ
悩み悲しみに 沈めるときも
祈りに応えて 慰め給わん
いつくしみ深き 友なるイェスは
変わらぬ愛もて 導き給う
世の友我らを 捨て去るときも
祈りに応えて 労(いたわ)り給わん】
しかし、唱歌『星の界』といえば、小学校五・六年生時に音楽で習った人は多い。そのせいか、愚生の年代の人ならほとんど知っているだろう。ただ、この歌が賛美歌「312番」だと知っている人は少ない。
【月なきみ空に、きらめく光、
嗚呼(ああ)その星影、希望のすがた。
人智(じんち)は果(はて)なし、
無窮(むきゅう)の遠(おち)に、
いざ其の星影、きわめも行かん。
雲なきみ空に、横とう光、
ああ洋々たる、銀河の流れ。
仰ぎて眺むる、万里(ばんり)のあなた、
いざ棹(さお)させよや、窮理(きゅうり)の船に。】 
子供のころに習った時は、深遠な星の世界の真理を歌ったものだと思った。讃美歌だと知ったのは、大人になってプロテスタント教会に通い始めてからだ。日本の結婚式場では、牧師や神父がアルバイト的に式を執り行う。愚生は、プロテスタントからカトリックに改宗したせいで、神父(カトリック)から、何故プロテスタントではこの曲(いつくしみ深き)を歌うのかと聞かれたことがある。キリスト教に関係がなくても、唱歌で習うため日本人でもよく知っている曲だからと適当に答えた。実は、愚生のプロテスタント教会では、結婚式の歌は讃美歌「429番」(あいのみかみよ)が常だ。
【愛の御神かみよ 御前に立つ
この妹と背を 恵み祝し
いと麗しき 愛の衣
装わせたまえ 常しなえに
玉しく庭も 愛のつゆの
潤いなくば などやすからん
布施屋の中も 愛の光
照りかがやかば 楽しみ満たん
愛の御神よ 世の旅路を
助けあいつつ 辿る間にも
愛にて満 天つ家に
住まう備えを なさせたまえ】 
愚生などが、論評するに値しないが、この歌詞が一番好きだ。
ところで、クリスマス・ソングを聞くと今年も終わりだという気がする。それもそのはず、キリストの生誕などわかるはずもない。冬至の日と決めたからだ。そのため、聖書のルカ福音書の記述とは合わない。西方(ローマ)教会では、イエス・キリストの誕生を12月25日に祝うが、東方(ハリス)教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に祝う。従って、ユリウス暦12月25日の降誕祭はロシアのカレンダーでは「1月7日」と表示されている。

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2015年8月31日 (月)

挫折は早いほうが良い

Paulmap1 新約聖書ローマ人への手紙の第5章3節に、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。」という箇所がある。ローマ人への手紙は、聖パウロが伝道旅行の終りに、コリントから次に訪ねる予定のローマ教会に宛てに書いた手紙だ。聖書解釈から離れても、人生を振り返れば「目から鱗が落ちる」と言い当てる場合が多い。どんな人だろうと、挫折を味あわないで人生を終えることはないだろう。痛みは、慣れによって癒されると同様に、艱難は忍耐を生み出す。そして、人は耐え忍び解放に向かって努力する。結果が全て上手くいくことはないだろうが、信じて将来に向かって進むしかない。ただ、挫折を味あうことは、早いほうが対処はしやすい。中高生なら、将来の自分の職業を選ぶ時間がある。大学生なら、再入学や転科によって、多少遅れても可能だ。就職してから自分のキャリアを変えるには、相当の覚悟がいる。特に、自分が大学までで培ったキャリアを全て捨てて、新たに学ぶ場合は多くの時間が無駄になる。それでも、自分の可能性に賭けて人生を歩むことはいいが、挫折した場合の自己崩壊感は大きい。人は、常に自分の立ち位置を基準に物事を判断することが多い。客観的に自分を見つめるときは、挫折を味わってからの方が多い。そう思うと、スタートが恵まれていることは、必ずしも良いことばかりではないようだ。

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2015年6月 3日 (水)

ホテルのチャペルでの結婚式

Ti_50723_20110601172343183 毎日、30度越えの猛暑だったが、今日は久しぶりの雨だ。昨日、猫の額のような庭に、日々草などを植え付けた。この雨で、苗の活着などの心配が無用になった。ところで、愚生は仕事で出張が多かったせいで、海外を含めて方々に行く機会が多かった。ところが長崎県は、全く機会がなかった。行く機会のなかった場所は、やたらと美化してしまうようだ。『長崎の夜はむらさき』という歌は、雨に湿った讃美歌の・・・浦上川で始まる。長崎と言う地域は、日本のカトリック教徒の約半数が住む。そして、浦上川といえば、カトリック浦上天主堂(教会)を連想する。ただ、愚生のようにプロテスタント教会で洗礼を受け、カトリックに改宗した者にとっては奇異に感じる。名前だけの信者であっても、プロテスタント教会では讃美歌だが、カトリック教会は典礼聖歌を歌う。耳にする巷で歌われる教会関係の歌は、ほとんどプロテスタント教会の讃美歌だ。最近、日本の結婚式場では、神前より教会形式で行われることが多い。信者でない姪の結婚式は、ホテルのチャペルで神父が式を進行していた。そして、日本でよく知られている『いつくしみ深き 』という讃美歌が歌われていた。母教会の神父も、アルバイトでホテルの結婚式を執り行うことがある。ただし、讃美歌のことは全く知らないため、元プロテスタントだった愚生になぜ『いつくしみ深き』を歌うのかと聞かれたこともあった。プロテスタント教会員同士の結婚式の場合は、『妹背をちぎる(いもせをちぎる)』が最もよく歌われるようだ。愚生も、三十数年前に歌った記憶がある。とり留めもなくブログを書いていると、今朝の日経平均株価が沈んでいる。頑張って頂きたいものだ。

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