キリスト教

2018年3月19日 (月)

パワーストーンの効用

23760175 先週、愚生が旅行中に友人が甲府から遊びに来た。昭和50年代に属した日本キリスト教団(プロテスタント)の知り合いだ。彼女がお土産として持参してきたものが、パワーストーンだった。なんでも、そのパワーストーンを置いておくとよく眠れるという話だ。愚生の住む家の近くにも、パワーストーンの店があった。ただ、いつ店の前を通っても客が居ることはなかった。そう思っているうちに、一年も経たずに閉店した。愚生自身は、パワーストーンの効用などは信じていなかった。逆に、パワーストーンなど胡散臭いと感じていた。ただ、せっかく遠くから持って来てくれたお土産のため、いらないとは言うのは失礼だと思った。そう思ったので、愚生が好きな南海ホークス色の緑ががった石を選んだ。天然石を選ぶときに「色」は非常に重要な役割を担うという。緑色のパワーストーンは、安心感を与えてくれる色だそうだ。緑が持つ効用はリラックスや癒しを司るパワーがある。負の感情を取り除き再生を促す石。不安や憂鬱といった感情から開放されたい時。対人関係の問題を解決したい時などの癒しをもたらす。マルコによる福音書16章に、イエスが復活した場面がある。『週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわされた。このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。そして彼らに言われた、全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。』と記されている。キリスト教もそうだが、日本にも「鰯の頭も信心から」という諺がある。神父に言えば破門、牧師に言えば除名されるかもしれないが、愚生などはその程度に思っている。そう思いながら、何も考えずにベッドの近くに緑色の石を置いた。その効用があったせいだろうか、ここ数日夢を見ることが多い。愚生自身は、エドガー・ケイシー「夢予知の秘密 」を読んでいた時に、夢を覚えておくトレーニングをした。そのせいもあって、一般人よりはよく夢を覚えている。ただ、見る夢は学生時代ではなく、F社で勤め人をしていたころの場面が多い。人生で一番長い時間を占めるから、当然かもしれないが。そして、夢だから荒唐無稽な話や場面が多い。ただ、日々単調な愚生の日課に、多少とも変化をもたらしてくれたので、パワーストーンは癒しになっているのかもしれない。かなり、強引なこじつけのような気はするが。選択して夢を見ることができるなら、桃色吐息のような場面の夢を見たいものだが。

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2018年2月18日 (日)

欧米が批判するように文化の欠落した蛮族

Inuniku3_201506282332498f8 平昌五輪を取材する欧米メディアが犬肉を食す韓国文化を批判している。補身湯(ポシンタン)は参鶏湯(サムゲタン)と並んで有名な朝鮮料理だ。犬肉は強壮料理として朝鮮では好んで食べられている。ただ、犬の肉を食べない日本や欧米では、野蛮だと批判されたためソウルオリンピックや2002 FIFAワールドカップの際には、これを扱う食堂は表通りから一掃された。しかし、最近はまた増えているという。ちなみに、2000年代後半でも、韓国では年間250万頭の犬肉を消費している。米CNNテレビなどは、「五輪の歴史に名を刻むため、選手たちがスケートやスキーの試合に挑んでいるとき、韓国国内で1万7千もの犬が虐殺されている」と報道する。しかし、犬肉を食べる文化は韓国だけではないようだ。韓国を含むアジアで年間、3000万匹の犬が食用として殺されている。欧米では、犬や鯨は食べてはいけないが、牛や豚なら良いという。批判は手前勝手な見方かもしれない。ではキリスト教徒は、なぜ豚肉を食べることができるのだろうか。ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒にとって、旧約聖書(モーセ五書)部分は同じだ。キリスト教旧約聖書:創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の部分である。レビ記11章の中に食物規定がある。主はまたモーセとアロンに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。以下抜粋 ・・・「獣のうち、すべて蹄の分かれたもの、すなわち、蹄の全く切れたもの、反芻(はんすう)するものは、これを食べることができる。 ただし、反芻(はんすう)するもの、または蹄の分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、蹄が分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。 豚、これは、蹄が分かれており、蹄が全く切れているけれども、反芻することをしないから、あなたがたには汚れたものである。」・・・この律法であれば豚は食べてはいけない。だから、ユダヤ教徒やイスラム教徒は律法を守り、豚肉を食べない。当然、イエス時代のキリスト教徒(当時はユダヤ教の改革派)も、豚は不浄のもので食してはいけなかった。しかし、イエスの使徒パウロは、モーセの律法がない時代の人(モーセの律法は出エジプト記)アブラハム・イサク・ヤコブも神の祝福を受けているため、モーセの律法を守ることにより神の祝福が得られるのではなく、キリストの贖いにより救われると説いた。このパウロの教えに従えば、食物規定や一部のモーセ律法が、信徒への適用から除外される。つまり、ユダヤ暦・男子の割礼などもなくなり、キリスト教に入信するには洗礼だけでよくなった。 いずれにしろ、こうしてキリスト教徒は、豚肉やタコ・イカなど自由に食することができ、割礼なども不要になった。しかし、旧約聖書に精通していれば、パウロが勧めたところで、聖書で禁止されているタコやイカのような鱗のない生き物はあまり食べないようだ。聖書には犬は食物として記述されていない。パレスチナの犬はインドの野ら犬や不浪人のように野性の汚いものと見なされていた。昔は市街や郊外をさまよい(詩編59,6,14)捨てられたものをあさり(出エジプト22,31)、血をなめ(列王記上22,38 詩編68,33)、死肉を食った(列王記上41,11 16,4 列王記下9,35・36)。このように聖書では、犬は汚いものとされていたから食べてはいけない動物だったようだ。しかし、聖書の記述はともかく、犬は人間が初めて家畜として飼育した動物であると考えられている。犬と人間との関わりの歴史は驚くほど古い。聖書が書かれた以前の約40万年前~15万年前の旧石器時代に遡る。当時の遺跡から、犬の祖先であるオオカミの骨が発掘されている。少なくとも世界各地に点在する約1万2000年前~3万5000年前の遺跡においては、犬と人間と共に墓に埋葬されている。欧米では、犬は食用ではなく互いを必要とするパートナーとして扱われている。人間は狩猟で野生動物をとらえ食料としていた。犬は人間よりもはるかに匂いに敏感で、早く走ることができる。そのため狩りにおいて絶好の相棒だった。犬という相棒を得たことで、狩りの効率が上り、人口もしだいに増えた。そして、牧畜や農業を営むようになった。こうした人類の発展過程で、牧羊犬など様々な犬が活用されるようになった。一方、犬側にも、人間と一緒に過ごすことで外敵から身を守り、エサをもらうことができるというメリットがあった。両者はお互いに共生関係となっていった。日本でも、平安時代にはすでに犬や猫を飼うブームがあったと考えられている。聖徳太子、藤原道長、徳川綱吉など歴史上の人物にも大の犬好きとして知られる人物が数多く存在する。これは歴史的なそれぞれの国の文化だ。愚生の考察だが、犬のように従順で人間に仕える動物を食う朝鮮人とはどういう種族だろうか。直ぐに思い出す彼らの行動は恩を仇で返すことだ。日韓併合で、奴隷社会から教育して救い上げてくれた日本人を悪く言う。人の好い犬を騙して食うのだから、彼らは嘘を平気でつく。売春婦を慰安婦と言い変えて、日本から金品を少しでも多く搾り取ろうとする。女子フィギアスケートのキム・ヨナのように、日本選手が練習の邪魔をすると嘘を言う。彼女は、ビデオテープで事実無根の批判だと謝罪を求める日本側に未だに返事をしない。こう考えれば、犬を食う朝鮮人は、聖書云々のではなく、欧米メディアが批判するように、文化の欠落した蛮族とみなすことは妥当だ。そして、支那に隷属して虐げられたためか、民度の低いDNAの積算人種なのかもしれない。

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2017年5月 5日 (金)

患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を

3063 5月のゴールデンウイークも、あと3日を残すばかりになった。愚生のようなリタイヤ層は、早く連休が終わらないかと待ち望む者もいるだろう。株式市場もテレビも休業モードとなると、刺激が少なくて困る。生産性もないくせに文句など言うなといわれれば、納得するしかない。子供の頃や勤め人をしていたころは、長期休暇はありがたかった。たとえ忙しくて休日出勤だとしても、割り増し残業がついてホクホクしたものだ。田舎から出てきたお上りさんにとって、地価が高い東京での生活は刺激的ではあったが余裕はなかった。住宅ローンを抱えて、妻子を養うことで精いっぱいだった。東京生まれの友人たちと違い、過去を振り返る余裕などはなかった。そういう愚生も、なんとか世間の荒波をくぐり抜けて自分を振り返る余裕ができた。就寝中に昔の苦しかったことや悔しかったこと、恥ずかしかったことなどを思い出すことがある。しかし、もうその当事者だった人たちと会うことも、連絡を取ることもないと思うと不安はない。いまが人生で一番いい時期なのかもしれないと思い込む。愚生は、いつもそう自分に言い聞かせながら生きてきた。過去の辛かったトラウマがそうさせたのかもしれない。そう考えれば、若いうちに挫折することは良いことだ。昨日のブログで、「足るを知る者は富む」について書いたが、当に愚生にとっての箴言だ。雌伏した期間は辛かった。しかし、それが鋼のような諦めない忍耐強さを形成した気もする。ここで、パウロ書簡のローマ人への手紙5章を思い出す。「然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。」とある。愚生は、人生はトータル1だと思っている。足るところや欠けたところを積分すれば、すべての人生は1に収束すると思う。そう思って、分不相応な希望や期待を戒めている。

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2017年4月16日 (日)

天に唾するような身を人前に曝したくない

5159zameatl  今朝のフジテレビの時事放談に、安倍晋三首相に外交を語る資格はないと叱責された田中均元外務審議官が出演していた。なぜ、安倍首相に批判されたかと言えば、田中は北朝鮮拉致被害者5人を北朝鮮に返すべきだと主張したからだ。安倍首相は、それを説明した上で、「あの時、田中氏の判断が通っていたら5人の被害者や子供たちはいまだに北朝鮮に閉じ込められていた。外交官として決定的判断ミス」だという。当時の安倍副官房長官が、それを覆さなかったら、今も蓮池薫さんらは北朝鮮に軟禁されていただろう。外務省の役人とは勝手なものだ。拉致被害者の親族や当事者のことなど、全く考えていない連中だ。文科省の役人は、教育の総本山という位置にありながら、自からの老後の就職先を、脱法して組織ぐるみで作っていた。こんな連中に、道徳教育が云々など言われたくもない。全く悲しい限りだ。外務省の役人なども、日本の外交より自分の飯の種が遥かに優先する。田中のような連中を、安い出演料で使うテレビ局も問題だ。愚生は、田中の顔が映った途端に、不愉快になってチャンネルを切り替えた。だから、彼が何を話したかは知らない。いずれにしても、厚かましくテレビに姿をさらす年老いた醜悪な面からは、自尊心や美学の欠片も揉み取れない。結局、役人を終えた人材などどこに行っても使い道はない。というか、その程度の仕事しかしていなかった。左翼系の毎日新聞に、彼らの主義主張に耳障わりの良い論評をして、紙面で使ってもらいたかったというのが本音だろう。安倍首相が批判した直接的な原因は、毎日新聞のインタビューで、田中が「国際会議などで、日本が極端な右傾化をしているという声が聞こえる」「中韓に日本を攻撃する口実を与えてしまっている」などと安倍首相の外交姿勢を批判したことだ。文科省の役人は金だけだったが、田中は拉致被害者の生命や人生を売ろうとしたから罪は重い。ところで、今日はイースターだ。パウロ書簡のガラテア人への手紙には、(6章7節~)「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とある。ある行為の結果が、わが身にはね返ってくる。絶対神であるキリスト教には、仏教特有の因果応報の思想はないという。しかし、箴言というか、やはりそれらしい記述はある。年老いてから、天に唾するような身を人前に曝したくないものだ

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2016年12月25日 (日)

キリスト生誕は12月25日でないことは確か

1485_ghf  クリスマスが終わると、もう正月だ。日本では、クリスマスというと信仰に関係なく便乗して祝う人が多い。そもそも、XmasとはX(ギリシャ語でXristosの頭文字)+mas(礼拝)の造語だ。Xristos(クリストス)とは「油を注がれた者」、つまり「救世主」を意味する。ところで、イエスの降誕が記されているのは、マタイとルカの福音書だ。最初に書かれたマルコの福音書には、イエスの降誕など記述されていない。マタイとルカの福音書によれば、イエスはユダヤの町ベツレヘムで処女マリアより生まれた。処女懐妊という記載は、イザヤ書7:14の 「あなたたちにしるしが与えられる。見よ、おとめ(ヘブライ語ではアルマー)が身ごもって、男の子を産み」 という箇所で、ギリシャ語訳で「乙女」を「処女」とした誤訳だという説が多い。マタイ福音書では、ヨセフとマリアがベツレヘムに居た経緯の詳細は記述されていない。一方、ルカ福音書の場合は、住民登録のためにマリアとともに先祖の町ベツレヘムへ赴き、そこでイエスが生まれたとある。新約聖書とは、旧約聖書の証であるため、「ベツレヘムは古代イスラエルの王ダビデの町であり、メシアはそこから生まれるという預言(ミカ書5:1)」から採用された箇所だろう。そして、マタイ福音書では、東方の三博士が星に導かれてイエスを礼拝しに来る。ルカ福音書は、ベツレヘムの宿が混んでいたために泊まれず、イエスを飼い葉桶に寝かせる。そのとき、天使が羊飼いに救い主の降誕を告げたため、彼らは幼子イエスを訪れる。「牛はその飼い主を、ロバは持ち主の飼葉桶を知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。(イザヤ 1:3)」という箇所から、馬とは関係がない牛とロバが記されている。新約聖書とは、イエスの磔刑場面をはじめ、ほとんどが旧約聖書から転記されたものだ。愚生の覚えでは、ユダヤ教改革派のイエス一派(キリスト教徒は後の呼び名)が自分たちの権威付けをするために新約聖書が必要だったようだ。 そして、クリスマスの由来は諸説あるが、古代ローマで冬至の日に行われていたお祭りが、イエス・キリストの生誕祭と結びついたといわれる。実際のところは、よくわからない。ただ、イエス・キリストの誕生日が12月25日でないことだけは確かなようだ。

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2016年9月 8日 (木)

罪み深い者の代表例として娼婦が挙げられる。

Tiziano2020maddalena20penitente オバマ米大統領を口汚くののしったことで、フィリピンのドゥテルテ大統領との初めての会談が中止になった。フィリピンのドゥテルテ大統領は、暴言王として知られる。このドゥテルテ氏は、フィリピン国内の治安改善のため薬物犯罪の根絶を掲げる。ただ、就任から2カ月余りで、警察官に射殺された容疑者の人数が1000人を超えた。これは、取締りという名で、超法規的な殺人を敢行している。容疑者を裁判もなく、殺戮するのであればフィリピンはもはや法治国家ではない。オバマ大統領が人権問題に言及するのは当然だ。愚生は、下衆の勘繰りで、一体どんな暴言を吐いたか気になった。その暴言とは、現地語で売春婦の息子と罵ったらしい。どうも、オバマ大統領が白人と黒人のハーフだったから、お母さんは売春婦だったと思ったのだろう。キリスト教の「新約聖書」の登場人物の中に「マグダラのマリア」という女性がいる。最近「ダ・ヴィンチ・コード」で、イエス・キリストの妻であったという仮説で、映画の中で取り上げられた。しかし、愚生の属するカトリック教会では、そのマグダラのマリアを娼婦だったと規定する。要するに、罪み深い者の代表例として娼婦が挙げられているからだ。そして、そこから生まれた子供も呪われた忌み嫌らわれた者だ。フィリピンは、長い間スペインの植民地だった関係で、カトリック教徒の国だ。ドゥテルテ大統領の暴言は、宗教的背景まで入れれば、かなりの言い過ぎだ。外交音痴な素人大統領には「井の中の蛙大海を知らず」という諺を贈りたい。そして、朴槿恵を他山の石とすべし。

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2016年8月21日 (日)

他人のこととなると厳しい目で見る

Tumblr_inline_ny7caben991skjhzr_250 古いアルバム整理をして、追加で新しいアルバムを注文した。相当の冊数になってしまった。ここ10年くらい撮った写真はファイル管理しているから場所をとらない。OB会の写真集も、インターネット上のサーバーで編集しているため、場所を取らない。アクセスもどこからでも可能だ。便利になったものだと思う。愚生のアルバム整理で見つかった旧友の集まりや結婚式の写真もスキャナーで読み取って公開(ID パスワード要)した。友人からは、忘れてしまっていたことを思い出したと返事が来た。一枚の写真から、多くのことが連想して蘇る。義母が介護施設から自宅に帰ると、時間があればいつも古いアルバムを見て過去の思い出に浸っている。愚生もいずれは、そういう時が来るのだろう。拙いOB会のHPだが、友人からの感謝の声が多少でもあればやる気が出る。歳を重ねても、自己の過失を認めずに、自己主張と他者批判だけは立派な人がいる。以前は不快だった。だが、最近は社会不適合症や脳の縮退からくるものだと思えば、腹は立たなくなった。親しい友人がいないという人は、性格の一部がどこか曲がっているのだろう。それが酷くなると、病気と称しているのだ。どうしても、他人のこととなると厳しい目で見てしまう。マタイ7章の「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか。」「視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。」という聖句を思い出してしまう。

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2016年8月17日 (水)

障害者のリハビリテーションは非障害者のリハビリテーション

C97b272fe52a8c3ce0261db1c3d4ef468e4 銀座線青山一丁目駅で、視覚障害者がホームから転落し、電車にはねられ死亡した。視覚障害者は盲導犬に先導され、ホーム上の柱をよけるように線路側に近づき、ホームから足を踏み外した。同駅のホームの幅は約3メートルあるが、複数立つ柱からホームの端までは約1.2メートルしかない。事故直前に、駅係員は白線の内側に下がるようマイクで注意したが、視覚障害者はホームから足を踏み外して線路に転落したという。愚生も銀座線を使うこともあるが、古い路線のせいもあってホームの幅は狭い。視覚健常者であっても、ホームからの転落不安はある。今回の事件で、盲導犬を責めるわけにはいかない。キリスト教の聖書には、無数の障害者が登場する。その聖書に登場する中には視力障害者もいる。当時は、昔の日本同様に障害は「たたり」や「罪の結果」だと信じられていた。そのため、イエスに批判的なパリサイ人は、視覚障害者を癒して開眼させたこと否定的だった。パリサイ人らはイエスに「私たちも盲目なのですか」と尋ねた。「もし盲目であったなら、罪はない。しかし目が見えると言い張るところに、罪があるのだ」とイエスは答えた。この箇所は、イエスが救い主だということを拒否した罪を指摘したものだ。この視点から「障害者のリハビリテーションは非障害者のリハビリテーションだ」という神学者もいる。今までは障害のある人が問題だと考えている。それが、そういう人たちを迎え入れようとしなかった社会にも大きな問題があることを気づかせる。ノーマライゼーションであり、バリアフリーの潮流はこの考えに沿っている。「目の見えなかった者が見えるようになり、見えると自称する者が見えなくなる」というイエスは、この逆転の中に神の救いと裁きを見ている。今回の事故は、視覚障害のない者が事故を予見できなかったことが問題だ。駅係員は白線の内側に下がるように、白線が見えない視覚障害者にマイクで注意するだけでよかったのか。そもそも、事故が起きそうなホームの改修を進めないで運用することも問題だ。それができないなら、駅係員が構内で視覚者を誘導していればこのような事故は起きなかった。東京メトロ経営者も行政指導する政府も、よく目が見えていない。

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2016年5月31日 (火)

信じるものは救われるのだろうか?

St_barnabas_ap_m 昨日は薄商いの中、日経平均が1万7千円を越えてきた。ポートフォリオを考えた長期投資というか、資産保全に切り替えたため株の売買を停止した。そうした途端に、株価の変動がそれほど気にならなくなった。多少の含み益があることも一因かもしれない。気持ちが揺れなければ、長期保持では利益が入ると確信している。大きく狙わず、ほどほどに儲かればいいと思う。残りが数えられるようになった年月を大切にしようと思う。朱熹の有名な詩に「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。いまだ覚めず池塘春草の夢。階前の梧葉すでに秋風」というのがある。小さい頃から諳んじていたが、有言不実行で、時間は無限にあるものと思い軽んじてきた。晩年になるまで、生きることしか考えなかったということだろう。言い換えれば、死ぬ準備ができていない。愚生の母も、自分は人生を悟ったと諭していたが、肺炎を患った時に大暴れして病院を煩わした。歳をいくら重ねても、いざ死に直面すると素直に受け入れることはできないようだ。友人の母も、自分はいつ死んでもいいと思うが、今は少し早いと言う。たぶん、死ぬまで同じ言葉を繰り返すだろうという。そう考えると、還暦過ぎたとはいえ愚生など、まだまだ若輩者だ。そして、死の直前まで生きることしか考えていない気もする。一つ誇れるとすれば、似非クリスチャンだが、保険として洗礼を受けていることだ。ヨハネの福音書3章に、「それは彼を信じるものが、すべて永遠の命を得るためである。神はそのひとり子をお与えになるほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。神が御子を世に使わされたのは、世を裁くためではなく、御子によってこの世が救われるためである。彼を信じるものは裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」という箇所がある。信じるものは救われるのだろうか?

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2016年2月13日 (土)

カトリック教会とロシア正教会の違い

Pb15 カトリック教会のローマ法王フランシスコと、ロシア正教会のキリル総主教が、キューバの首都ハバナの国際空港で会談を始めたというニュースがあった。キリスト教会が1054年に東西に分裂して以降、両トップが会談するのは初めてだという。愚生のような似非カトリック者でも、信者になる前に教育を受ける。愚生の場合は、洗礼はプロテスタントの日本キリスト教団から受けたため、改宗という形でカトリック信者になった。キリスト教に興味がない人には、つまらない話だが、カトリック信者でない者は、ミサで配られる「ホスティア」は食べられない。ただし、東方教会(ギリシャ正教)の信者は、他宗教という扱いだが食べることができる。紛らわしいが、ローマ教皇という職位は、コンクラーベ(選挙)で選ばれた、西方教会の最高位だ。一方、ロシア正教会とは、コンスタンディヌーポリ総主教を名誉的なトップとし、グルジア正教会、ブルガリア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正教会といった、諸々の独立正教会・自治正教会が連合体だ。愚生の記憶では、東西の違いは歴史教科書にある西ローマ帝国とビザンチン帝国(東ローマ帝国)の違いからくる。一方、教義においては、「聖霊の父(神)」および「子(イエス)」との関係について、東西教会の違いがある。西方教会、つまりカトリック教会、プロテスタント教会においては、「三位」の「位」は「人格」と解され、三位一体論は「三人格」で実体を同じくする神とする。三位一体のうち、一体を重視する。(イスラーム教のアラー神に近い)これに対して、東方教会は、「三位一体」とは言わず「至聖三者」という。これは三つの「実体」と「存在・本質」、つまり父(神)・御子(イエス)・御霊(聖霊)の自存性が強調される。愚生のようなおおざっぱな人間には、些細なことにしか思えないが、重大なことのようだ。ところで、パウロ書簡の第一コリント7章で独身について「結婚して自分の童貞性を離れる人もりっぱに行動していますが、結婚しないで,それを離れない人は、さらにりっぱに行動していることになります。」とある。(コリント第一7:38)パウロは「すべての人がわたしのようであればと願います。」とも述べている。(コリント第一7:6)つまり、パウロが独身であったように、独身であるのが望ましい。要するに、聖書にはできれば、独身を保つようにと勧めている。そのため、カトリック教会では聖職者の独身制を定めている。ところが、東方教会においては、在俗司祭は妻帯していることがほとんどである。(ただし、修道士(女)は独身)愚生には、プロテスタントの牧師は務まっても、神父は絶対に無理なことは明らかだ。

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